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第18話
メリア王女が王宮に現れてからというもの、空気はどこか張り詰め、廊下に差し込む日差しの温もりさえ、霞んで見えた。
王宮は落ち着きを失い、かつての明るさや活気が嘘のように消えていた。
すれ違う人々は言葉を呑み、ひそやかに視線を逸らす。まるで王宮という巨大な機構そのものが軋み、音を立てながら歪んでいくかのようだった。
ジークが不在__
それだけで、これほど人の心が離れ、まとまりが崩れてしまうのか。チルは胸の奥に、静かな絶望を押し込めるように、そっと手をあてた。
ジークを支持しない古参貴族たちは、メリア王女を先頭に堂々と王宮を闊歩していると聞く。
改革の歩みは鈍り、吹き抜ける風は重く、広がる曇天のように先の見えない空気が漂っていた。
その時。
「チル!頼まれてたもの、持ってきたよ。これで合ってる?」
元気な声と共に、マイロが包みを抱えて現れる。王女の目を盗んで、図書室から修復資料や必要な書物をこっそり運んできてくれる日々が続いていた。
「マイロ、ありがとう。うん、完璧」
「よかった。で、これが児童室、こっちは厨房。あとは…あ、庭師用のやつだ」
チルは部屋にこもりながら、必要な人々のために文書を整理し、解説を添えて資料を整えていた。マイロはその橋渡し役を担ってくれている。
「無理させてごめんね……私が図書室に出向くことが出来れば、一番いいんだけど」
「言うなって、今は無理なんだから。陛下が、ここで待っててくれって言ったんだろ?だったらチルは胸張って、待ってりゃいいんだよ。陛下は、必ず帰ってくる」
「……うん」
ジークの姿が見えない日々が続く。
手紙は届いた。けれど、それでも不安が心の隙間をすり抜けてくる。小さな棘のように、気づかぬふりをしても、どこかに引っかかって離れない。
「それにさ、あの女の狙いって結局『富』だろ?色が戻った王は国を豊かにするって、昔の文献を根拠にしてるらしいけどさ。まぁ、どこまで信じてるか知らないけど」
マイロは肩をすくめて、溜息交じりに言った。
確かに、メリア王女はすでに王妃気取りで、王宮のあらゆる決裁に口を出し始めているらしい。チルが図書室を離れることになったのも、その余波だった。
__ジーク様は、変わらずにいてくれる。必ずお戻りになる。
心の中で何度もそう繰り返してみても、胸の奥に浮かぶ小さな揺れは、言葉だけでは届かない場所に潜んでいる。
ジークを信じて待っている。それは、疑いようのない想いだ。けれど、「婚約者」という言葉を聞くたび、胸の奥にふっと影が差す。
本当に王女は突然ここへ来たのだろうか。
もしかしたら、すでに何かが、取り決められていて……自分が知らされていないだけなのでは__そんな考えが、時折、静かに顔を出す。
不安を抱えたまま、チルはただ、待っていた。
「でも……それだけじゃない気がして。王女様は、ジーク様のことを本気で……それにもしかしたら、ジーク様も……そんな気持ちを持っているのかもしれないって…」
「おいおい、しっかりしろって!」
マイロはチルの肩をぽんっと叩いた。
「陛下からの手紙、読んだだろ?『待っていてくれ』って、書いてあったんだろ?」
「……うん。そうだけど…でも……やっぱり、色を取り戻すには選ばれし伴侶って話があるから……それが、王女様なんじゃないかって……」
チルの声は次第に小さくなる。頭から離れないのは、あの古書の言葉と、それを得意げに掲げた王女の姿だった。
マイロは両手をポケットに突っ込んだまま、どこか呆れたように笑った。
「てかさ、色が見えたかどうかなんて、正直どうでもよくね? 陛下だって、きっとそう思ってるよ」
「……え?」
「だって、陛下が必要としてんのはチルなんだよ。図書室で働いてたとか、身分がどうとか、色が見えるとか……そんなの関係ないね。全部ひっくるめて、チルがいいって、陛下は言ってると思う」
「……っ」
「チルは、いっつも自分のこと後回しにするけどさ。陛下が待っててくれって言ったんだろ? だったらさ、信じて、待ってりゃいいんだよ」
その言葉が、ぽたりと胸の奥に落ちて、波紋のように広がっていく。
揺れていた心の中に、ゆっくりと何かが灯りはじめる。
チルはマイロの言葉に、ふっと視線を落とす。そして、小さく微笑んだ。
「……マイロって、たまにジーク様に似てるよね。大事なこと、ちゃんと伝えてくれる」
「え? 俺が? あの人に似てるって、ちょっと光栄かもだけど……いやいや、重いな〜それは」
わざとらしく肩をすくめるマイロに、チルはくすっと笑った。
「でも、ありがとう。少しだけ……怖さが消えた気がする。ジーク様が、私を見てくれていたって、ちゃんと思えた」
「見てるさ。むしろ見すぎてるってくらいだと思うけど? ……あの人、チルのことになると、けっこう独占欲強いからね」
「えっ……そ、そうなの……?」
「うん。俺の目から見ても、もうメロメロだよ。自覚ないの? 陛下のチル依存っぷり」
「……そ、そんな言い方しないで……!」
真っ赤になって抗議するチルを見て、マイロはからかうように笑いながらも、優しい声で付け加えた。
「でも、本当に。チルが揺れてるときは、俺が支えるって決めてるからさ。ひとりだと思わなくていい」
その言葉に、チルは胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……ありがとう、マイロ。私、ちゃんと待ってる。ジーク様が帰ってくるまで」
「うん。その顔で言えば、陛下もまっすぐ帰ってくるさ。……たぶん飛んで」
そう言って、マイロは再び肩をすくめ、包みの中の最後の書物を机に置くと、にっと笑った。
「じゃ、午後は東棟の医務室まわってくる。また夕方に来るよ」
「うん、夕方待ってるね、マイロ」
「お、ちゃんと笑ったな。よしよし、その調子。チルが元気だと陛下は喜ぶぞ。じゃ、またあとで」
チルは照れくさそうに笑い、手を振ってマイロを見送った。
静かになった部屋の中、改めて視線を落とした書物の文字が、少しだけ柔らかく見えた。
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