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第19話
部屋にこもっているとはいえ、日中は資料の整理や文書の修復に追われ、忙しく過ごしていた。
マイロも毎日顔を見せてくれ、やるべきことは尽きない。だからこそ、何とか平静を保ちながら、日々を乗り切っていた。
けれど、夜になると、すべてが変わる。
静寂が部屋を満たし、ひとりきりの時間が訪れると、心はどうしてもジークのことでいっぱいになる。
届いた手紙には、「まだ戻れない」と記されていた。隣国での交渉が難航しているのだろうか。それとも、何かもっと大きな問題があるのだろうか。
想像だけが膨らみ、胸を締めつける。
『チル……頬が赤くなっているぞ』
あの、どこか照れたように笑ったジークの声。頬に触れるその手の温もりも、今はもう届かない遠いものとなる。
会いたい……ただそれだけなのに、なぜこんなにも遠いのだろう。
ふと、机の上の地図と草案に視線が落ちた。ジークが描こうとしていた未来の断片。チルはそっと顔を上げる。
この手で、その続きを守りたい。
彼の不在を、ただの空白にはしたくない。
ジークが目指す国の姿を、チルは知っている。すべての民が、学び、考え、誇りを持って生きる国。
その未来を信じるからこそ、今この場所を守らなければ。王がいない今、誰かが立ち上がり守るべきなのだ。ジークが帰る場所を、変わらずに。チルは静かにそう考えた。
そして__
王女メリアの目的は何なのだろう。
マイロは「富だ」と言っていた。
だが、王女の言う「富」とは一体何なのか?金銀か、贅沢か?手がかりを探すように、チルは記憶をたどる。
『色を失った王は、真なる伴侶を得た時、新たな富と繁栄をもたらす』
メリア王女が持っていた書に記された言葉を思い出す。そして書庫に保管されていた古文書には、別の一節が記されていた。
『誰よりも深く色を知ろうとする王は、やがて色を授ける者に辿り着く』
かつては一続きだった書物なのだろう。
時の流れの中で、何らかの事情により分かたれてしまったのかもしれない。
さらに、チルは古文書の片隅に、手書きの走り書きを見つけていた。
『色とは、心で見るもの』
初めて目にしたときは、何を意味しているのか分からなかった。書き手の意図も、ただ曖昧なままに読み流していた。
けれど今なら…ほんの少しだけ、その言葉の輪郭が見える気がする。
色は、目に映るものだけじゃない。
声にこもる温度、触れた手のぬくもり、呼ばれる名前の響き……
それらすべてが、自分の心に色を灯すのだと、ジークは教えてくれた。
「……心で見るもの」
その走り書きが、静かに胸の奥へと沁み込んでいく。ジークのそばで感じた想いとあたたかさ。ジークの見ている光を、今なら自分も、同じように見つけられる気がする。
チルは立ち上がり、棚から古文書を取り出した。薄暗い室内で、震える指先がページをめくる。
『色とは、心で見るもの』
もう一度、その言葉に目を落としたとき、ふとジークの言葉が思い出された。
「色が見えていた頃は、見えていたことで、かえって気づかなかったことも多かった気がする」
声の温度。触れたものの手触り。空気の匂い。日差しのやさしさ……
色を失って、初めて感じ取れるようになったものが、確かにあると彼は言っていた。
色が「ある」か「ない」かではない。色を「知ろうとする心」こそが、すべてを映すのだ。
チルはそっと胸に手を当てた。
ジークが願った未来。今度は自分が、その一端を支えたい。
小さな灯が、静かに、けれど確かに、チルの中で燃え始めていた。
◇◇◇
翌朝、チルは決心を胸に外へ出た。もう、じっとしているだけではいられなかった。
マイロに頼み込み、半ば強引に一緒に外に出てもらう。気持ちは決まっていた。迷いはない。
最初に足を運んだのは児童室だった。
扉を開けた途端、陽だまりに満ちた優しい空気と、子どもたちの楽しげな声が、ふわりとチルに押し寄せた。
中では、侍女が絵本の読み聞かせをしていた。チルが以前おすすめした本だ。その本を囲んで、子どもたちは興味津々の顔で物語に耳を傾けている。
チルに気づいたひとりの侍女が、ぱっと顔を明るくして声をかけてくる。
「絵本、すすめてくれてありがとう!」
そのすぐあと、読み聞かせを聞いていた子どもたちも、一斉に声をあげた。
「この本すきー!」
「また読んでー!」
「これ、ぜんぶ読む!」
無邪気な歓声が飛び交い、チルは思わず笑みをこぼす。小さな手で絵本をぎゅっと抱きしめる子もいて、その様子に胸がじんわりと温かくなった。
チルは思わず微笑む。マイロも子どもたちに混じって、手を振り返していた。
児童室を後にして、中庭へと向かう。今日はよく晴れていて外の空気が心地よい。庭師たちが集まり、花壇の植え替え作業に精を出していた。
チルに気づいた庭師のひとりが、手を止め、にこにこと近づいてきた。
「この前の資料、すごく助かってるよ!」
思いがけない言葉に、チルはぱちりと瞬きをした。こんなふうに感謝されるとは思っていなかったから、胸の奥がふわりと熱くなる。
「えっ……私のこと、知ってくださってたんですか?」
おずおずと尋ねると、庭師は屈託のない笑顔でうなずいた。
「マイロが教えてくれたんだ。『この資料をまとめたのはチルさんだ』ってな!本当に助かった。植え替え、あの手順どおりにやってるよ。順調にいってる」
そう言いながら、別の庭師たちも手を止めてこちらに顔を向け、口々に「ありがとう」「助かった」と声をかけてくれる。
チルの頬も緩んだ。
こんなふうに、自分の働きが誰かの役に立っている。その実感が、胸の奥をじんわりと温めていく。
「陛下が戻ってくる前に、綺麗な庭を用意して驚かせたいんだ。だから、急ピッチで作業してるんだよ!」
そう笑う庭師たちと話していると、胸の奥に小さな灯りがともるのを感じた。王宮の庭は、ただの景観ではない。ここで働く人たちの誇りであり、癒しの場でもあるのだ。
中庭を抜けて、日当たりの良い廊下を歩いていくと、今度は香ばしい匂いが鼻をくすぐった。厨房が近い。王宮のキッチンは今日も忙しそうだ。
料理長と目が合い、すぐに声をかけられる。
「おお、チル!この前の資料、すごく助かったよ!」
料理長とは面識があった。ジークの偏食について、何度か相談を受けていたからだ。
「陛下って偏食なのか」隣でマイロがニヤニヤと笑いながら口を挟む。
「うん。でも、素朴な料理が好きみたい」
チルが答えると、料理長が大きく頷く。
「そうそう!素材の味が活きてる料理が好きなんだ。貴族が好むような凝った料理はあまり召し上がらないみたいでね」
「でも、まだまだ偏食は手強いけどな!」
料理長は笑いながら続けた。
「チル、陛下が戻ったら、また一緒に頑張って食べさせような!」
「はい、承知しました」
チルは自然に微笑み、深く頷いた。
王宮の中には、まだ不安で顔を曇らせている人たちもいる。それでも、誰もが言葉にするのは「ありがとう」だった。
ジークが戻るまで、この場所を守ろうと。
ジークのために働き続けようと。そんな声が確かに、あちこちで響いていた。
与えられるのを待つだけではない。自ら手を伸ばし、未来をつかもうとする人たちの姿。
知識や教養は、道具だ。
自分で考え、選び、未来を選び取るために必要なものだと、ここで働く人たちは知り始めている。
国を、もっと自由で平等な場所へ。
ジークが目指す理想は、確かに民の胸に届いている。それを目の当たりにして、チルは思った。ここには、未来がある。これこそが、ジークが望んだ『富』なのだと。
金銀財宝ではない。人々の学び、誇り、希望そして笑顔。それこそが、繁栄だと。
チルは胸に静かな熱を抱き、図書室へと向かった。
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