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第20話
久しぶりに訪れた図書室。だが、そこはチルが知る場所とは、まるで違っていた。
王宮の書庫。そう呼ばれるこの図書室には、王族の家系図、古い法律文書、民間伝承に至るまで、膨大な数の書物が所狭しと並んでいたはずだった。
それが今は、まるで別の場所のようにあちらこちらに空っぽの本棚が目立っている。
「……これって……なんで……」
あまりに変わり果てた姿に、チルは思わず声を漏らした。本棚から抜き取られ、床に投げ捨てられている無数の本。無造作に残された空間が、冷たく胸を刺す。
処分された?
それとも、どこかに持ち出された?
どちらにしても、乱暴で無慈悲なやり方だ。心の奥に、じわりと悔しさがにじむ。
隣で肩を落とすようにしていたマイロが、ぽつりと口を開いた。
「……王女と貴族たちがここを立ち入り禁止にして、図書室を無くす計画を立ててたんだ。このあと、ここは貴族たちのサロンにするって言ってる」
言葉を選びながら伝えるマイロの声が、やけに遠く感じた。
マイロが言いにくそうにしているのも、ここがチルにとって、どれほど大切な場所か知っているからだろう。だが、これはマイロのせいではない。
チルは視線を床へ落とし、しばらく動かなかった。
静かな吐息をひとつ。黙ったまま、図書室をゆっくりと歩く。かつて賑やかに並んでいた本棚の間を、何度も往復し、失われたものを確かめる。
やがてチルは小さく頷いた。
「うん……マイロ、大丈夫。無くなっているのは、王室の機密資料や古文書じゃない。また戻せる本ばかりだよ。全部は確認できないけど……」
重要なものはチルの部屋にある。きっとマイロが危機を察して、先に持ち出してくれていたのだろう。
「……そうか。それなら、ちょっと安心したけど……守りきれなくて、ごめん」
マイロの小さな声に、チルはきっぱりと首を振った。
「マイロのせいじゃないよ。むしろ、守ってくれたんだ。大事なもの、ちゃんと届けてくれたんだもん。本当に…ありがとう」
笑顔でそう告げると、マイロは戸惑ったように目を瞬かせた。そして、緊張がほどけるように、チルに向かってふっと顔をほころばせた。
マイロにも手伝ってもらいながら、チルは図書室の本棚の整理に取りかかった。
ところどころ、ぽっかりと抜け落ちた棚が痛々しく映る。だけど、床に散らばる本を一冊ずつ拾い、拭い並べ直していくうちに、少しずつ以前の空気が戻ってくるのを感じた。
「……こうしてると…なんだか、前みたいだね」
思わず小さくつぶやくと、隣で本を運んでいたマイロがふっと笑った。
「やっぱ、ここはこうじゃなきゃな。ぎゅうぎゅうに詰まった本と、チルがいてさ」
「……えっ、そんな、…かな」
「うん、そうだよ。チルが棚の間にいて、眉ひそめながらも楽しそうに整理してるとこ。それがいつもの図書室だよ」
「……そ、そんなふうに見えてたんだ……」
「当たり前じゃん。俺、それ見ると、あー今日も平和だなってなるんだよな」
苦笑いしながらも、チルの胸の奥に、じんわりと温かいものが広がっていく。
失われたものは確かにある。けれど、すべてが壊れたわけではない。残されたものを整えていけば、この場所はきっとまた息を吹き返すはずだ。
棚の本を整理しながら、マイロとくだらない冗談を交わす。ほんのひととき、ここが自分たちだけの世界になったようだ。チルは小さな息を吐き、肩の力を抜いた。ようやく、ほんの少しだけ、心がほどけた。
__コツコツと靴音が響く。
靴音と複数の笑い声が廊下を満たしていた。そのざわめきは、徐々にこちらへと近づいてくる。
ガラッと乱暴な音を立てて扉が開かれた瞬間、チルは肩をびくりと震わせた。
入ってきたのは、王女メリアと取り巻きの貴族たちだった。チルの姿を見とめると、メリアはわずかに眉をひそめたが、すぐに冷ややかな笑みを浮かべ、一瞥だけをくれた。
王女メリアは、冷たい視線をチルに向けた。その目には、まるで取るに足らないものを見るような侮蔑が宿っている。
そして、乾いた声で言い放った。
「ここは、あなたのような庶民が立ち入る場所ではないはずよ。…出て行きなさい」
静かな怒りを胸に押し込め、チルは一礼する。そして、顔を上げ、まっすぐにメリア王女を見据えた。
「ご無礼、お詫びいたします。しかし、ここは国王陛下の機密文書を多く扱う場所。……このままでは、荒廃が進むばかりです。整理が必要です」
言い終えたとたん、メリア王女は乾いた笑い声を上げた。
「整理?必要ないわ。こんな古臭い書庫なんて、もうすぐ無くなるもの。ここは取り壊して、私たちのサロンにするのよ。本なんて、すべて処分するに決まってるじゃない」
あまりに一方的な言葉に、チルは息を詰めた。胸の奥を、冷たいものが駆け抜ける。それでも、唇をきゅっと引き結び、チルは一歩踏み出した。
「王女殿下。無礼を承知で申し上げます」
震える心を抑え、言葉を紡ぐ。
「ここは、陛下にとって必要な場所……いえ、この国全体にとっても、未来に必要な場所です」
一瞬、空気がぴんと張り詰めた。
「陛下がお戻りになるまで、私はここを、必ず守ります」
声は静かだったが、しっかりと芯があった。その言葉の奥で、チル自身の胸にかすかなざわめきが広がっていた。
……もしかしたら、王女こそがジークの本当の婚約者なのかもしれない。そんな思いが、頭の片隅にひっそりと居座っていた。
けれど、それでも言わなければならなかった。ジークとの約束を、想いを、今さら引き下がることなんてできない。
チルの静かな宣言に、王女メリアは顔をひきつらせ、声を荒らげた。
「守る?あなたが?そんなこと、できるはずがないわ!」
声がわずかに震えている。
「陛下は……陛下は、私と結婚なさるのよ!
あなたなんかに、この場所も、陛下も、守れるはずがない!」
取り巻きの貴族たちも、どこか不安を隠すように、くすくすと笑い声を漏らした。
だが、チルは動じなかった。心臓はうるさいほど鳴っている。それでも、足元はしっかりと地を踏みしめている。
「……できるかどうかではありません」
小さな声だったが、図書室の静けさにそれはよく響いた。
「私は、ここを守ると…決めたのです」
チルの瞳に、わずかな迷いもなかった。
王女の眉がぴくりと動く。
「無駄なことを。色を失った王など、誰も必要としていないわ。だから私が、王に色と富を取り戻す。あなたには、何一つできない!」
メリアが吐き捨てるように言った瞬間、チルは、ぎゅっと拳を握りしめた。胸に甦ったのは、ジークのあの言葉だった。
『色が見えなくても、俺には、大切なものがたくさん見える』
__ジーク様。
チルはゆっくりと息を吸い込み、静かに、しかしまっすぐに王女を見据える。
「……王女殿下の仰る『富』とは、金銀や宝石、地位のことでしょうか」
問いかける声は、わずかに震えながらも、はっきりと響いた。
王女の顔に、苛立ちが走る。
「当たり前でしょう!富とはそういうものよ!色を取り戻せば、財も繁栄も更に手に入る。陛下なら、それができるの!」
早口でまくし立てるメリアの瞳は、強欲にぎらついていた。
「私が陛下と結ばれることで、この国にも恩恵があるの。国民だって喜ぶに決まってるわ。……違う?」
貴族たちが小さく同意するようにうなずいた。けれど、チルは一歩も引かない。静かに、けれど確信を持って言葉を紡ぐ。
「……陛下が望んでおられるのは、金銀財宝ではありません」
図書室に張りつめた空気が落ちる。
「知識を得た民が、自ら未来を切り拓くこと。それこそが、陛下が築こうとしている『富』です」
チルの声は、しっかりと響いた。
王女メリアの顔がこわばる。
「そんなもの、誰が信じるっていうの?」
「信じています」
チルは胸に手を当て、しっかりと宣言した。
「もう、たくさんの人たちが。字を覚えた子どもたちも。土を学び、作物を育てる庭師たちも。料理を工夫し、人々の健康を守る厨房の人たちも」
チルは一瞬だけ目を閉じ、静かに続けた。
「陛下は、この国の誰もが、自ら歩き出せる未来を信じておられる。私は、それを近くで見てきました」
ほんの小さく、チルは微笑んで続けた。
「__色とは、心で見るもの」
その言葉に、誰もが黙った。
王女メリアすら、反論できずにただ唇をかみしめている。
図書室の空気が、しんと静まり返る。
王女メリアに明らかな動揺が走った。
「あなたに、何ができるというの?」
強がる声とは裏腹に、その瞳にはわずかな焦りが滲んでいた。
チルは静かに、胸に手を当てる。
ジークにとっての「富」とは、金銀財宝でも、権力でもない。
民の心が豊かであること。知り、学び、自由に選ぶ力を持つこと。
それは、文化や尊厳、希望や平等。誰か一人が独占するのではなく、皆で分かち合い、育てていくもの。
ジークが目指す国は、身分に関係なく、誰もが教育を受け、夢を語り、誇りを持って生きていける場所。未来を、自分の意思で選べる世界。
チルは、まっすぐに王女を見つめながら、けれど声色は穏やかだった。
「富とは、民の笑顔であり、希望への道であり……国全体が前へ進む力です」
図書室に、静かな光が差し込んでいるような気がした。
だからこそ、伝承に記された『色を取り戻す』という言葉も、金や地位ではなく…心に戻る、あたたかな光のことだとチルは信じていた。
愛情、信頼、分かち合う喜び。
そして、誰かと同じ未来を見つめる勇気。
「陛下の願う『富』は……民が自分の言葉で未来を語る、その姿です」
チルの声はやわらかく、けれど確かだった。その目には、迷いではなく、静かな想いの強さが宿っていた。
「贅沢に囲まれた国ではなく、心が豊かな国を陛下は、そう望んでおられるのです」
小さく、けれど確かに、チルは微笑んだ。
「色が見えるかどうか……それは、陛下にとって、本質ではありません」
色とは、ただ視覚で捉えるものではない。
声、ぬくもり、そして心のありよう。それらすべてを見ようとすること。
チルは胸の奥で強く思った。
ジークはもう、誰よりも多くの「色」を見ているのだと。小さく息を吸い、チルはもう一歩、静かに踏み出した。
「そして、私もその未来を支えるひとりです」
王女の眉がぴくりと動く。
「私は、特別な力など持っていません。ただ、陛下が目指す世界に生きる者として、
この国を守りたいと願う、たったひとりの民です」
チルの声は、しっかりと響いた。
「本を修復すること。知識を届けること。必要とする人に道を示すこと……それが私にできる小さな仕事。小さな灯でも、集まれば国を照らす光になると信じています」
王女メリアから、言葉が消えた。
「私は、陛下を待ちます。この国の未来を信じて。だから、ここを守ります。私自身が、陛下の願った未来の一部だからです」
静かな決意が、図書室いっぱいに広がった。
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