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第26話
新しく条約を結び直せたと聞いて、チルはほんの少し、胸をなで下ろしていた。けれど、隣国から戻ったばかりの国王陛下であるジークには、まだ山積みの問題が待っているはずだ。
王女メリアとの関係をはじめ、国内の動揺した貴族たちの対応、交渉によって揺らいだ財政の立て直し。
一つ終わったからといって、すぐに穏やかな日々が戻るわけではない。
それでも、彼はここに戻ってきた。誰よりも早く、まっすぐに、この場所へ。
せめて、今の自分にできることを。
そう思ったチルは、ジークのために食事の支度を始めた。
それに、何か手を動かしていなければ、ふとした瞬間に、抱きしめられたときの感触がよみがえってしまう。
ジークの広い胸板、優しく撫でる手、繰り返された甘いキス。それを思い出すたび、身体が熱くなり、思考が止まってしまう。
男同士で抱き合うことは知っていた。この国では、同性婚も認められている。図書室で古い文書の修復をしていた時、そういった歴史を目にしたこともあった。
けれど、知識と現実は違う。チルには、経験がない。ジークに求められたとき、ちゃんと応えられるのか、不安もある。
それでも、好きな人に抱かれたい。ジークに、もっと触れられたい。その想いは、怖さよりもずっと大きく胸の中に広がっていた。
チルは小さく深呼吸をして、コトコトとスープを煮込んでいく。野菜もたっぷり入れた、ジークが好むちょっぴりスパイシーにした味付けだ。味見をして、ふっと小さな笑みがこぼれる。
「……喜んでくれるかな」
自分でも、声に出してしまって、そっと頬を染める。
何時に帰ってくるかわからない。
だけど、今日はこのまま、待っていたい。
チルは作ったスープを保温しながら、机に向かい、資料作成に取りかかった。本をめくり、書き写し、考察をまとめていく作業に没頭する。
夢中になっていれば、ほんの少しだけ、ジークへの想いの熱を忘れられるから。
だけど…ふと手を止めると、すぐに思い出してしまう。大きな手の温もり。優しい声。そして、あの、約束の言葉。
『君を、俺だけのものにする』
胸が高鳴り、顔が熱を持つ。
慌てて本に視線を戻した。
トントン――
控えめなノック音に、ハッと顔を上げる。
時計を見ると、もう深夜を回っていた。
慌てて立ち上がり、扉を開けると、そこには、疲れた顔に苦笑を浮かべたジークが立っていた。
「……俺の部屋にいないから、少し慌てた」
肩をすくめながら、どこか照れたように笑う。
「す、すみません!やることがあったので…あ、あの!ジーク様、お食事は?召し上がってませんか?スープを作っておきました。もしよろしければ……」
早口になりながらも、チルは一生懸命に伝える。ジークは、そんなチルを優しく見つめ、ふっと柔らかく笑った。
「……ありがとう。チルのスープを食べるために、隣国から帰ってきたんだ」
二人で、自然と顔を見合わせて笑いあう。少し肩の力が抜けたチルは、そっと尋ねた。
「ジーク様、ご飯……ちゃんと食べてましたか? 料理長と、心配してました」
「えっ、料理長と?」
ジークが少し驚いたように目を瞬かせ、次の瞬間、苦笑いを浮かべた。困ったように眉を下げ、額に手をやりながら、照れくさそうに笑う。
「……参ったな。何か言ってたろ、俺の偏食がどうとか、好き嫌いがどうとか」
「え? 特には……」
チルはぱちりと瞬きをして、少しだけ首を傾げた。
「ただ、ジーク様がお戻りになったらいっぱい食べさせようって……約束はしてました」
「うーん、怖いな」
そう言いながらもジークの笑みはやわらかく、どこか嬉しそうだった。
笑い合い距離は、自然とまた近づいていく。お互いに、会えなかった時間を埋めるように。
「ごちそうさま。うまかった。やっと戻ってこれたって実感する」
食後のテーブルで、満足そうにスプーンを置いたジークが、チルに向かって優しく微笑む。その穏やかな表情を見て、チルも胸をなで下ろした。
無事に帰ってきた。ちゃんと食べてくれた。その事実だけで、胸がいっぱいになる。
「チル……」
ジークが、ふいに真剣な顔でチルを見つめた。
「色を……見せてくれ」
金の瞳が、まっすぐに、熱を帯びてチルを捉える。
「やっと……君の色を知ることができる」
低く、甘く、震えるような声だった。
戸惑うチルの手を、ジークはそっと握る。
あたたかく、大きな手。そのまま、ゆっくりと立ち上がり、チルを静かに引き寄せた。
「……いいか?」
囁かれるように問いかけられる。胸がドキドキと高鳴る。チルは小さく頷くのが精一杯だった。
ジークに手を引かれるまま、ふたりで歩く。辿り着いた先は…チルの小さなベッドルーム。二人きりの空間が、しんと静まり返る。
「……チル」
呼ばれた瞬間、チルは振り返る間もなく、優しく引き寄せられた。ぎゅっと、胸に抱きしめられる。
「君を……ずっとこうしたかった」
低く、掠れる声が耳元をくすぐる。抱きしめる腕が、強く、けれど震えるほどに優しい。
「君を抱きしめたくて、君を感じたくて…ずっと」
繰り返される言葉のひとつひとつが、チルの心を甘く痺れさせる。
「……ジーク様」
小さな声で呼ぶと、ジークはふわりと微笑み、そっとチルの髪に指を滑らせる。そして、額に、瞼に、頬に、何度もキスを落としていった。
「可愛い……チル……」
ジークは、チルの小さな顔を両手で包み込むと、真剣な眼差しで見つめた。
「可愛くて、愛しくて……壊してしまいそうで、怖いくらいだ」
その言葉に、チルの胸がきゅうっとなる。
ジークの愛が、痛いほどに伝わってきた。
ゆっくりと、唇が重なる。最初は、優しく触れるだけのキスだった。けれど、すぐにジークは耐えきれないようにチルを強く抱き寄せ、深く、甘く、何度も何度も、息を継ぐ間もないほどのキスを重ねた。
甘くて、溺れそうで、チルは必死にジークにしがみつく。
「たまらない……」
息も絶え絶えに囁きながら、ジークはチルをそっとベッドに押し倒した。上から降り注ぐ熱い視線。金の瞳は、ただチルだけを映している。
「全部、俺のものだ……チル」
低く、震えるような声が、チルの耳元で囁かれる。
「……君の全部を、俺にくれ」
ジークは、何度も何度も、確かめるようにキスを落としながら、チルの胸を、指先で撫で、抱きしめる。
すべてを包み込むように、溶かしてしまうように、ジークはひたすらチルを愛し、甘やかしていく。
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