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第29話
あれから、少しずつ日常が戻ってきた。
王宮に漂っていた刺々しい空気は和らぎ、騎士たちの巡回にも笑い声が混じる。
王女メリアは本国へ戻り、残った古参貴族たちも、新しい条約の文言が公布されるにつれ次第に静観の姿勢を取り始めた。滞っていた交易税の見直し案も可決へと動き、街の市場には久しぶりに隣国産の香辛料が並び始めていると聞く。
けれど、戻ってきた日常は、もはや以前とまったく同じではなかった。
国が少しずつ前へ進んでいくように、自分の気持ちも、確かに変わっていく。
ジークと交わした言葉。
心に触れたあの夜のぬくもり。
そして気づいた……
自分の中に、確かに「好き」という想いがあることを。
ずっと憧れていた人、国民にとっても誇りであり、未来を切り拓く偉大な王。そんなジークから、まっすぐに「好きだ」と告げられた。胸がいっぱいで、日々が眩しくてたまらなかった。
自分の気持ちを伝えるのは、まだおこがましい気がしていたけれど、夜、ベッドの中では、素直な心を隠さずにぶつけることができている。
ジークは意外と独占欲が強いらしく、毎朝、離さないようにぎゅっと抱きしめてくる。朝起きるのが大変だけど、楽しく甘い二人の日が続いていた。
その朝も変わらず、食後の紅茶を用意しようとした瞬間、背後からぬくもりがふわりと重なった。
「…ジーク様、溢れるから…!」
「君がいる朝は、香りが倍に感じる。不思議だよな」
そんな甘い囁きが耳元にかかり、チルの手元がわずかに震える。
「ジーク様…ひゃっ…!」
小さなキスが首筋に落とされ、チルはとうとう、真っ赤になって何も言えなくなる。
ジークはくすりと笑いながら、チルの肩に顎をのせた。
「チル。今夜、少し出かけようか」
「……え?」
驚いたチルが振り向くと、ジークはいつになく柔らかな表情で続けた。
「例の一件で捨てられた本あるだろ?もう修復できないものもあるだろうし。特にあの、古い歴史の記録とか…。君、落ち込んでいたからな」
王女メリアの命で破棄された蔵書は数多く、ほとんどはなんとか回収できたものの、数冊だけは、取り戻せないまま失われてしまった。
それらは、チルにとって特別な価値を持つ、二度と手に入らない貴重な本だった。
「……はい。図書館の中でも、とても貴重なものだったので……」
ジークは少し視線を落とし、ふっと笑う。
「だから、一緒に探しに行こうと思ってな。王室の保管庫とは別に、郊外に信頼できる書物商がいる。以前、夜市の帰りに立ち寄った町なんだが…」
「 そうなんですか……!そんな場所があるんですね」
チルの瞳が嬉しさで、ぱっと輝く。
「あるとも。それに出かけるとなると、ふたりきりのデートだ。久しぶりだな。君と手をつなげるし、途中で甘いものも買おう」
「……っ」
嬉しさと恥ずかしさがないまぜになって、チルは思わず視線を落とし、こくんと小さくうなずいた。
そんなチルの様子を見ながら、ジークの声が、ふわりと優しく降りてくる。
「君のための時間にしたい。だから……つきあってくれるか?」
その一言に、チルの胸がまた、温かく震えた。
「……あの、ジーク様」
うつむいたままのチルが、ぽつりと呟く。視線はまだジークの胸元あたりをさまよっていた。
「ん?なんだ?」
「……手をつなぐのは……その、帰り道のときでも、いいですか……?」
その言葉に、ジークの表情がふっとやわらぎ、笑みがにじむ。
「最初からじゃなくて?ずいぶん慎ましいな、チルは」
「だ、だって……っ、最初からだと、なんだか…変に意識してしまって……」
恥ずかしそうに視線を伏せるチルの頬は、ほんのりと赤く染まっている。けれどその胸の奥には、確かに手をつなぎたいという素直な気持ちがあった。ジークもきっと、それに気づいている。
けれど彼は国王陛下だ。人目のある場所で、目立つ行為は控えるべきだということも、チルはわかっていた。だから、帰り道だけと伝えていた。
以前、手を繋いで歩いたときのことが、ふとよみがえる。嬉しくて、何度もぎゅっと握り返したこと。ふわふわと浮かぶような気持ちになって、顔が熱くなったこと。
そのすべてが、今また胸の奥でじんわりと灯っているようだった。
「ふふ、わかった。じゃあ帰り道のご褒美に取っておこう。ちゃんと、俺の隣にいてくれれば、それでいい」
そう言って、ジークはそっとチルの髪に手を伸ばし、耳の後ろをやさしくなぞるように撫でた。
「……君は、どうしてそんなに可愛いんだろうな」
低く囁くようにそう言うと、ジークはチルの頬に指先を添え、そっと顔を近づけた。
驚いて目を瞬かせるチルの唇に、ジークはゆっくりと口づける。
触れるか触れないかの、淡いキスだった。
けれど、離れるかと思った唇は、すぐには離れず、むしろそっと角度を変えて、もう一度触れる。
今度は少しだけ深く、少しだけ長く。
チルの唇がわずかに震えたのを感じたジークは、その震えごと包むように、そっと手を後頭部に添えた。
逃がさぬように、けれど優しく。
「……ジーク、様……」
かすれるようなチルの声が、触れ合う間にこぼれる。
その声を聞き、ジークのキスはさらに深くなりそうになる……が、そこでふっと息を抜くように、唇を離した。
「……危ないな、これ以上したら、またベッドに戻るところだ」
耳元で低く囁かれたその声に、チルは思わず耳まで赤く染めて俯いた。
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