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第30話
王宮の外へ…ふたりきりの外出だ。
ジークは「デートだ」と言い笑っていた。
馬車に揺られて小さな町へ向かうあいだ、チルの胸はずっとそわそわしていた。嬉しくて、でも少し落ち着かなくて。
「二人で外出するのは久しぶりだよな」
隣からふっと声をかけられて、チルは顔をほころばせる。
「……はい、本当に。だから、すっごく楽しみなんです」
ほんの少しだけ頬を染めながら、でもまっすぐにそう言うチルに、ジークは目を細めた。
「……そんな顔を見せられたら、外に行くより、ずっと君を抱きしめていたくなる」
低く甘い声に、チルは一瞬ぽかんとし、次の瞬間、頬がみるみる真っ赤に染まった。
「……ぅぅ、外出って…言い出したの、ジーク様のほうなのに…」
小さく不満を漏らすチルに、ジークは声を立てて笑った。
「ああ、そうだったな。じゃあ今日は、ちゃんとデートを楽しもう」
そう言って、ジークは満足そうに微笑み、そっと肩を寄せる。
馬車が止まり、石畳の町に降り立つと、夕暮れの風が頬を撫でた。どこか懐かしい匂いがして、心がふっとやわらぐ。
ジークが案内してくれたのは、石畳の通りの一角にひっそりと佇む、小さな古書店だった。
軋む扉を開けると、ふわりと紙とインクの混じった懐かしい香りが漂ってくる。
店内には高く積まれた本の山と、木製の棚。夕暮れの窓辺には、猫が気持ちよさそうに丸まっている。
年配の店主は、ジークの素性にまったく気づかない様子で、「ああ、それならこちらに…」と、奥の棚から古い写本をいくつか丁寧に持ってきてくれた。
「…うわぁぁ……」
チルは思わず夢中になり、指先でページの端を大事そうにめくっていく。紙の質感、かすれた文字、時間の重み……どれもが宝物のようだった。
ジークがそっと後ろから覗き込むたび、耳のあたりが熱くなる。すぐ背後にある気配と、低く静かな息遣い。鼓動が跳ね、ページを追う目がときどき、ふるえる。
「君がこうして本を眺めてる顔、好きだよ」
と、ジークがぽつりと囁いたとき、チルは思わず指を止め、ページの上で固まってしまった。
そのあとは、石畳の広場に並ぶ露店をひとつひとつ覗きながら歩いた。
香ばしい匂いに惹かれて立ち寄った屋台で、蜂蜜をたっぷり使った小さな焼き菓子を買う。丸くてふわふわとしたその菓子は、手のひらにちょこんと乗るほどの可愛らしさだった。
「ひとくち、食べてみる?」
ジークが微笑みながら差し出すと、チルは遠慮がちに受け取る。
「んっ……! おいしいっ」
目をまんまるくして頬張った。蜂蜜のやさしい甘さと、ほんのりシナモンの香りが口いっぱいに広がる。その瞬間、チルの表情はぱっと明るくなった。
「これ、初めて食べました! なんていうんでしょう…あの、ふわってしてて、外がちょっとカリッとしてて…!」
一生懸命説明しようと、手振りまで交えて言葉を探すチルに、ジークはくすっと笑う。
「気に入ったなら、よかった。……君のその可愛い顔が見たかったからな」
「っ……ジーク様、またそうやって…!」
耳まで赤くしながらも、チルは嬉しそうに笑った。袋を両手で抱え、次は自分からジークにひとつ差し出す。
「はい、ジーク様もどうぞ。すごく、おいしいです!」
「ありがとう、チル」
ジークはそのままチルの指ごと包むようにして受け取り、甘い菓子と、そのぬくもりごと味わうように目を細めた。
二人は焼き菓子を分け合いながら、肩を並べて歩く。夜風がそっと頬を撫で、街は静かにその色を深めていく。
「チル、ほら、次の角に面白そうな香草のお店がある。見ていくか?」
「……はいっ!」
普段よりも少し弾んだ声で返事をして、チルは自然とジークの隣にぴたりと寄り添って歩いた。
角を曲がった瞬間、目に飛び込んできたのは、色とりどりの瓶や束ねられた乾燥ハーブが並ぶ可愛らしい店先だった。
「わっ…すごい、ジーク様見てください!あれ全部、本物の香草なんですね…!」
目を輝かせて身を乗り出すチルが、思わず声を弾ませる。
「うわああっ……!あっちにも!すごい、どれもいい匂いがしますっ!」
そんなチルのはしゃぐ様子に、ジークは小さく笑みを浮かべた。
通りを吹き抜ける風に、ほのかに甘い香草の香りが混じる。行き交う人の声、石畳を踏む足音、そのすべてがどこか心地よく響く。
ジークの手がふと触れそうな距離にあるだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。こんな風に、ただ一緒に歩いているだけなのに。
「ジーク様……本当に、こんな時間があっていいんでしょうか」
思わずこぼれたチルの声は、自分でも笑ってしまいそうなくらい嬉しそうに響いた。
「こんな時間?」
ジークが足を緩め、穏やかにチルを見つめる。
「はい。こんなに、楽しくて、心があたたかくなる時間を……」
その一言に込められた想いが伝わったのか、ジークはふっと笑った。
「ははは、どうしてだ? いいに決まってる。君とこうして歩く時間は……俺にとって、何より誇らしいものだよ。王としても、一人の男としてもな」
優しい声が胸に染み渡り、思わずチルは目を伏せた。なのに、胸の奥は不思議なくらい熱くて、きゅっとなる。
通りを抜け、町のはずれにある小さな橋の上で、ジークはふと立ち止まった。
「……チル」
名を呼ばれ、チルが振り向く。
ジークは穏やかな目でこちらを見つめたまま、そっとチルの手を取った。その手は大きくて、温かくて、頼もしい。
「せっかくのデートだ。もう手くらい、繋いでもいいだろう?」
軽やかな声でそう囁かれて、チルの頬はぱっと赤く染まる。
「……っ、ジーク様……! ここ、外ですし……人の目が……」
そう口にしながらも、手を引くことが出来なかった。むしろ、握られた手の感触を、どこか名残惜しそうに確かめてしまう。
心の奥で小さく跳ねるような喜び。じんわりと伝わってくる温もりに、躊躇う気持ちも少しずつ溶けていく。
ジークがそっと指先を絡めてくる。
「平気だ。君と手を繋げるなら、どこでも誇らしいよ」
その一言に、チルの胸がきゅっと音を立てた。
手を繋いだまま、ふたりは夜の通りを歩いていた。
通りの灯りが足元を淡く照らし、どこかの露店から漂う甘い香りが、心をほどいていく。けれど、それ以上に胸をくすぐったのは、隣を歩くジークの存在だった。
ふいに横を向くと、ジークと目が合った。
その瞬間、繋いでいた手が、きゅっと強く握られる。
あの時と同じ合図。言葉はなくても、それだけで心が通じ合う気がする。
チルも思わずぎゅっと握り返す。嬉しくて、あの時を思い出し、懐かしくて、思わず笑みがこぼれそうになる。
だけど……
あの時より、なんだか照れくさくて。
それでも、やっぱり嬉しくて仕方がない。
手の温度も、指先の重なり方も変わらないのに、今は胸の奥がずっとくすぐったくて、熱くて。
そっと目を伏せると、ジークの指先が優しくチルの手を包み込むように動いた。
ジークの手が、まるで問いかけるように、優しく、でも逃がさないように包み込んでくる。
「チル……ほら、こっち向いて? そんな顔、見せてくれないと、もったいないだろ?」
囁く声は低くて、甘くて、どこかくすぐるようにイタズラっぽい。
「…っ、は、恥ずかしいですから…っ」
顔を背けながらそう言うチルの手を、ジークはもう一度ぎゅっと握った。
視線を落としたまま、必死に頬を隠そうとするチルに、ジークがくすっと笑う。
「じゃあ、もっと恥ずかしいことするか?」
「~~っ!ジーク様っ、そういうの…ずるいです…!」
「俺はずっと、君の顔が見たいんだけどな」
そう言って、ジークは繋いだ手をそっと持ち上げ、チルの指先に軽く口づけた。
「……っ!!」
その仕草に、チルは顔を真っ赤にしたまま、そっとジークを見上げた。
「……もう、知らないです……」
目が合った瞬間、ジークは静かに微笑む。
その瞳はあたたかくて、どこまでも優しく、見つめられるだけで心まで溶けてしまいそうだった。
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