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第32話
朝食は、ふたりきりの小さな食卓でとるのが、すっかり習慣になっていた。
ジークは焼きたてのパンをスープに浸しながら、時折チルに穏やかな視線を向ける。
「今日も図書室だろ?」
「はい。修復の続きと、来月の目録整理を……」
そう答えるチルの声は柔らかく、どこか嬉しそうだった。
「昼には、時間が取れそうだ。一緒に食べられるかもしれない」
「本当ですかっ!……うわぁ、嬉しいです!お弁当、準備しておきますね」
パンを口に運びながら、チルはつい笑顔になり、そっとジークの横顔を見つめる。
こうして朝を共に過ごせるだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。今でも夢の中にいるようだった。
やがて朝食を終えたジークが席を立った。
「じゃあ、俺は執務へ。君は気をつけて。昼に顔を出すから」
「……はい。お待ちしています」
扉が静かに閉まる音がして、チルは小さく息をついた。朝の光が差し込む窓辺で、そっと上着を整える。資料を抱え、ふわりとした気持ちのまま、図書室へ向かった。
王宮の図書室。今日もまた、チルの居場所であり、大切な時間がそこにある。
司書としての仕事も、変わらず続けている。
メリア王女によって多くの書籍が処分された図書室は、まだ復旧作業の途中だ。マイロにも手伝ってもらいながら、日々、少しずつ整理を進めていた。
そして、変わったことがもうひとつある。
図書室を使う人が増えたことだ。
今では、以前のような私書箱でのチルへの依頼が少なくなり、直接、顔を見せて訪れる人が多くいる。
顔が見えると直接話を聞き、本を紹介できる。それが、ただ嬉しかった。人々の思いに、より鮮やかに触れられることができるとチルは感じていた。
__だけど、今日の図書室は違った。
朝から、誰一人として訪れない。
以前のように図書室は、チルひとりきりである。
静まり返った図書室に、戸惑いながらチルが首を傾げていると、カラリ、と控えめな音を立てて扉が開いた。
顔を覗かせたのは、ジークだった。
「ジーク様っ!お昼、一緒に食べられそうですか?」
駆け寄りながら、チルはぱっと顔を輝かせる。今朝、昼になったら図書室に向かうとジークから言われていた。約束通り来てくれたんだとチルは嬉しくなる。
「なんとか時間をもぎ取ってきた。カイルが意外とスパルタなんだ」
ジークは笑いながら歩み寄り、ふわりと、チルを抱きしめた。その腕は、優しくて、それでいて決して逃がさない強さを持っていた。
「ジ、ジーク様……ここ、図書室ですっ!」
「誰もいないから、いいだろ?」
「……だめ、ですっ!」
必死に押しとどめるチルを、ジークはくすっと笑ってから手を緩めた。
「じゃあ、夜まで我慢しようか。そうだ、夜は果実酒を飲もう。たくさん飲んでもいいだろ?明日は、休みなんだから。な?」
「……っ」
返事に詰まりながら、チルは視線を逸らす。ジークは、そんなチルの反応をも楽しんでいるようだった。
隣国スチーク王国で人気の果実酒を、ジークは土産として持ち帰っていた。以前、果実酒を飲みすぎたせいで大変な目に遭ったこともあり、チルは自制していた。
だけど……
「少しくらいなら大丈夫だろ?」と、ジークに言いくるめられて、結局昨夜も一緒に飲んでしまった。
果実酒を飲むと、チルはほんの少しだけ大胆になる。
「……暑いです。脱いでも、いいですか」
と、ぽつりと呟いてジークの膝に自ら乗ってしまうこともある。
だけどジークはそれを見越して、毎回、無害を装ったお願いを仕込んでくるようだ。
ジークにお願いされると、チルは、それがまるで当然のことのように「……はい」と頷いて、するりと応えてしまう。
そして、こう囁いてしまう。
「ジーク様……色は、見えますか?」
少し潤んだ瞳で、甘えたように身を寄せ、
自分から抱きついて、そっとキスを落とす。そのまま、何度も、何度も、ベッドの中で愛を重ねてしまう。
ジークにとっては、それがたまらなく愛おしいらしく、最近では必要以上に、果実酒を勧めてくるようになった。
「……ぅ……っ…」
思い出すと恥ずかしくなり、赤くなりながら、弁当を広げるチルを、ジークは嬉しそうに見つめた。
「おっ、うまそうだな。今日は?」
「たまごのサンドイッチです。それと、イチゴ!ジーク様、イチゴ好きでしょう?ほら、真っ赤に熟れてるんです」
嬉しそうに差し出すと、ジークは優しく微笑んだ。穏やかで、温かい昼のひととき。ふたりだけの世界だ。
そして、ジークがふいに、真剣な声で呼びかけた。
「チル」
名を呼ぶ声は、低く、静かでけれど何より、迷いのない響きだった。チルが思わず顔を上げると、そこには、じっと自分だけを見つめるジークの瞳があった。
「俺と、結婚してくれないか」
一瞬、時間が止まったように感じた。
図書室に、しんと静寂が落ちる。空気は凪ぎ、風の気配さえ遠ざかる。聞こえるのは、心臓の鼓動だけ。
「……わ、私……?」
かすれた声で呟く。
胸の奥がきゅっと締めつけられる。まさかそんな言葉を自分が受け取る日がくるなんて、夢にも思っていなかった。
ジークは静かに頷いた。
「知恵と心を持ち、誰かを支え、未来へ繋ぐ力。俺がこの国に根付かせたいと願ったもの。それを、体現しているのは君だ、チル」
金色の瞳が、真っ直ぐにチルを見つめる。
「……愛してる。俺には君が必要だ」
ジークはチルの手を取ると、そっと指先にキスを落とした。
チルの胸の奥で、静かにあたたかな光が弾けた。顔を真っ赤に染めながら、チルは小さく頷き、潤んだ瞳で見上げながら、小さく、けれどはっきりと口を開く。
「……はい。わたしで、よければ……ずっと、そばにいさせてください」
チルは顔を赤く染めたまま、そっとジークの手を握り返した。その瞬間、ジークはふっと息を呑み、微笑んだ。
「ありがとう、チル。君がいてくれるなら、俺は何だって乗り越えられる。…これからも、手を離さないでくれ」
静かに抱き寄せられた。胸の中は、安心とぬくもりで満ちていた。チルはあふれ出す想いを抱きしめるように、そっとジークに寄り添う。
これからの日々は、ジークとともに。
喜びも、哀しみも、戸惑いも……
出会うすべての瞬間に、ふたりで、鮮やかな色を重ねていく。
チルは、もう一度そっとジークの手を握り返した。小さな手と、大きな手。重なったそのぬくもりは、確かに、未来へと続いている。
end
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