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【8話:ヒートとラット】

ぐらり。 黒板を見ていたハルトの視界が揺らいだ。呼吸が浅くなり、汗が噴き出る。目眩がして、椅子に座ってもいられない。 「ヒート」 その単語が頭に浮かんだ瞬間、ガタンと音がして、ハルトは床に倒れた。 授業中だった他の生徒や教師が驚いて、教室がざわつく。 佐藤 望月!? ハルト (クソ、何でこんな急に…!?) 周期的にはまだ先のはず。抑制剤も今朝ちゃんと飲んだのに。 起き上がりたくても体が言うことを聞かない。その時、耐えがたいほどの甘美な香りが鼻腔を掠めた。 ハルト (朝倉の、フェロモン…!) 隣の席のレオンを見た。 レオンもハルトを見ている。 しかし、視線は虚だった。 オメガのヒートは発情期とも言われ、アルファを強く惹きつける。 だから。 誰かがハルトを助け起こすよりも先に、レオンがハルトに獣を思わせるような動きで覆い被さった。 机や椅子がガタガタと音を立てて倒れる音が、教室に一層の異常事態を知らせる。 ハルト なっ!? ヒートで体が思うように動かない。首筋のあたりに、獣の息遣いが聞こえる。 「助けて」 声にならない悲鳴と、力の入らない腕でレオンの体を押すがびくともしない。もう片方の手で、首の後ろを守る。 噛まれてしまえば、番になってしまう。それだけは、避けたかった。 なのに、レオンから生じている甘ったるい匂いが、徐々にヒートになった自分の理性を溶かしていくのを感じる。 嫌だ、駄目だ!それだけは。 田中 おい!朝倉をはがせ! 田中の声で、何人かがレオンを抑えにかかる。教師を含めた数人がかりで引き剥がすと、教室の外へと連れて行った。 佐藤はその間に、ハルトのカバンから抑制剤を取り出して飲ませる。万が一の事態に備えて、親しくなった当時に伝えておいたのだ。 —ラットだ… 教室の誰かが言った。 アルファが、ヒートのオメガに呼応して、獣のようになる現象。オメガの意思に関係なく、番になろうとする反応のことだ。 – 今、抑制剤飲ませたよね? – え?普段から使ってないの?オメガなのに – レオン様、可愛そうじゃん。ヒートのせいでしょ? そんな会話が、ハルトの耳に入ってくる。佐藤も、心底嫌そうな顔をした。何か言いたそうな佐藤を、ハルトは服を引っ張って制する。 5分ほどして、少しずつ抑制剤が効いてきた。体は怠いが、座れない程じゃない。 支えてくれていた佐藤に、ハルトは礼を言う。 ハルト ありがとう。もう、大丈夫… 佐藤 そうか、良かった… ハルト ああ。助かった 佐藤 いいよ、気にすんな 佐藤はハルトの背中を軽く叩いた。 クラス中から冷たい視線を感じながら、ハルトは席に座り直す。そこでやっと、レオンがいないことに気づいた。 ハルト …朝倉は? 佐藤 どっか連れてかれた。先生も一緒に行った 佐藤は、レオンが倒した机や椅子を直しながら答える。 それを聞いて、ハルトはひとまずホッとする。自分の身の安全と、ラットがこれで落ち着くだろうと思って。 あの目は、レオンだって望んでいたことではない。それだけは、確信があった。ざわつく胸の内を落ち着かせるように、手のひらを当ててゆっくりと呼吸する。 ただ、あの薄暗い目を思い出すと手の震えが止まらなかった。オメガじゃなければ、こんな思いしなくて済むのにと、心の澱が濃くなる。 教室の扉が開いて、担任が入ってくる。騒動を聞きつけたのだろう。ハルトの席まで歩いてくると声をかけてきた。 担任 望月、ヒートか? ハルト …はい 担任 抑制剤は?飲んだのか? ハルト 飲みました。今はもう、落ち着いています 担任 …朝倉は今、生徒指導室だ。しばらくすれば戻って来るだろう。だから、今日は一旦帰れ ハルト …え? 担任 万が一に備えてだ。朝倉がまたラットにならないと言い切れないからな。それに、オメガなんだから、番になりたくないなら自衛しないといけないだろ ハルト (…ああ、オレが原因だから帰れっていってんのか) 意図を理解したハルトは、低い声でわかりましたと答えると、帰り支度を済ませて教室を出た。 廊下を歩きながら、ぶつけようのない怒りや悔しさが、瞳から溢れそうになる。それを必死でこらえながら、まだ明るい中、一人でとぼとぼと帰路についた。

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