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第3話

翌週、広瀬は、早めに帰ることができた日に、傘をもって『花沢ふとん店』を訪ねた。 ピンポンとベルをならすと、この前の夜の男性がでてくる。 名前は聞かなかったが花沢さんだろう。この前はニット帽をかぶっていたのでわからなかったが、今日はかぶっていない。頭が禿げ上がっている。髪の毛の量というのは年齢を見誤らせる要因になりやすい。70代にも見えるけど、実際は何歳なんだろう、と広瀬は思った。 「わざわざ返しに来てくれたんだ」と花沢さんは言った。そして、あがっていけ、と言われた。「女房が留守でね。何にもないんだけど」と言われる。 ここで失礼しますと2回ほど言ったのだが、そういわず、あがって、と5回くらい言われ、根負けして布団屋の二階にある自宅にあがった。 「女房は、四国に行ってるんだ。孫の顔みにね。娘が転勤族となんて結婚するから、孫に会うためだけでそんなとこまで行かなきゃならない。俺は店があるしさ、孫の顔もみられないよ」と配偶者が家にいない理由を説明してくれた。そして、慣れた手つきで日本茶を入れて、お菓子と一緒にだしてくれた。 「あんた、どこに住んでんの?」と質問される。「近所にいるんだろ。ちょっと前まで、『アザミ』でよくモーニング食べてただろ」 まさか、そんなことを知っているとは驚いた。 『アザミ』というのは『花沢ふとん店』から歩いて5分くらいにある喫茶店だ。 年配の女性が3人くらいで切り盛りしている。東城のマンションに来ているお手伝いさんの石田さんがご飯を作ってくれるようになる前、朝時間があると時々寄ってモーニングセットを食べていたのだ。 「びっくりした?あんた有名だったんだよ。『アザミ』の奥さんたちがイケメンがくる、イケメンがくるっつってさ、近所にふれまわってたんだ。最近ちっともこなくなっちゃったって残念がってたよ」 「はあ」 「たまには寄ってやってよ。モーニング食わなくてもいいから。コーヒーうまいんだぜ」 「知ってます」 「あ、そりゃ、そうだね。奥さんたちあんたにかなりサービスしてて、モーニング増量してたんだよ。それは知らなかっただろ」花沢さんはそう言った。「俺、この辺の町内会の名誉会長兼消防団名誉団長なんだよ。だからご近所には詳しいんだ。長いことやってたんだけどこの前後進に道をゆずってね。今はどっちも名誉がついちゃった。『アザミ』の奥さんたちのことも開店以来よく知ってるんだよ」自慢気に言われた。 「はあ」 『アザミ』は開業ン十年という風情のかなり古びた喫茶店だから、相当長い期間の知り合いなのだろう。 「そうそう、それと、あんたの友達も一緒に連れてってやって」 「友達?」 「うん。背が高い男前。何回か一緒にモーニング行ったらしいな。奥さんたちに冗談言ったりして、感じよかったんだってさ。『アザミ』の若奥さん、っつってももう60だけど、なんて、すっかりのぼせちゃってさ。また来ないかってずっと言ってたよ」 「はあ」広瀬はうなずいた。 確かに2~3回東城と一緒に『アザミ』で朝食をとった。東城は、店の女性たちに味を誉め、軽口をたたいていた。 ある老舗の若奥さんがあなたに好意をもってるようですよ、とか東城に言ったら、面白いことになるような気もした。 「でさ、どこ、住んでるの?」と重ねて聞かれる。 広瀬は、言葉を濁しながらマンションのあたりの住所を言った。 「あそこのあたりね」と花沢さんがいう。「思ってたよりももっと近いんだな」うんうんとうなずいている。「消防団入らない?」 「え?」 「地域の消防団。若い人、なかなか入ってくれないんだよ。でも地域の安全を守るって大事だと思うよ」 そういいながら、立ち上がり、手にチラシをもってくる。 『消防団員募集』と書かれていた。 なるほど。勧誘のためのお茶とお菓子だったのか、と思う。もう食べてしまった後だ。 「どう?仕事忙しいだろうけど、やりがいあるよ」花沢さんが言う。 「そうですね」と広瀬は同意した。「でも、事情があって」 「事情ってなに?」 「俺、警察官なんです。何かあったら消防団で活動してるってわけにはいかなくて」 花沢さんは大げさに驚いて見せた。「警察の人だったの?どこの交番?」 「交番勤務ではないです」 「刑事さんなの?テレビドラマみたいな?」 「テレビとは違います」 「へえ。警察の人だったんだ。それで、いつも朝早くでて夜遅く帰ってたんだ」 広瀬が行き来している時間を知っていたのだ。 明日には『アザミ』の奥さんたちも広瀬の職業を知ること間違いなしだろう。 「そりゃあ、確かに、消防団どころじゃないな」と花沢さんは言った。 「それでなんで消防団がこれに変わるんだよ」東城が手にチケットを持ち、天井にかざしてライトにあてながら書いてある文字を読む。「秋の詩吟の会」 「花沢さんが習っているらしいです」と広瀬は答えた。「今度、発表会があるから来て欲しいって頼まれたんです」 東城が広瀬にチケットを返してくれた。「あれだ、広瀬。最初にハードルの高い条件を出して断らせて、悪いなあと思わせてハードルの低い条件を飲ませるっていう、交渉術。お前ははめられたんだよ。俺は、最初からこの詩吟の会に誘うのが目的だったと見るね。くせ者だぞ、ふとん屋の花沢さん」そういいながら笑っている。 広瀬は花沢さんにもらった封筒にチケットを戻す。 4枚もある。消防団の話しの後、思い出したように花沢さんはこのチケットを渡してきた。この詩吟の会ではお弟子さんはチケットを何枚か買わないとならないらしい。無駄にもしたくないからと、広瀬は押し付けられたのだ。もちろんタダで渡されたのだが。 「伝統文化に触れることも大事」とかなんとか花沢さんに言われた。 東城に行ってもらおうかと思って見せたのだが、あっさりと断られた。この日は仕事で出張らしい。出張じゃなくても、ちょっとな、と言っていた。 「詩吟ってどんなのか知ってる?」と聞かれる。 「さあ」 「やっぱり知らないんだな。俺はああいうの、座ってられないってわかってるから」と東城は言った。

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