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第6話

 長くて苦しいだけの発情期がやっと終わった。  遮光カーテンの隙間から差し込んでくる光をボーっと眺める。  部屋はシゲルさんの服と僕の脱ぎ捨てた服が部屋中に散らばっていた。  無我夢中で飲んだ薬のゴミは、誰かが綺麗に片付けてくれたのか、床にはひとつも落ちていなかった。 「お腹……空いた……」  発情期の間、まともに食事を取ることすら出来ていなかった身体が空腹を訴えるように微かに鳴る。  でも、立ち上がる気力すら起きない。  食事をしたところでなんになるんだろう……  僕がここで餓死したら……、シゲルさんは帰って来てくれるのかな?  ちょっとくらいは悲しんでくれるのかな?  僕のこと、やっぱり一番愛してるって……言って、くれるのかな……?  静かに頬を雫が伝い落ちる。  ベッド横のチェストの上に置かれたペットボトルを見て、発情期(ヒート)中の僕を心配して来てくれた人を思い出す。 「……ハルくんに、また迷惑かけちゃったな……」  背が高くて、カッコよくて、優しい人。  僕の憧れの人。  彼の顔が脳裏をよぎり、力の入らない体をなんとか起こして寝室から出る。  4LDKの部屋には僕以外誰もいないようだった。  シゲルさんの部屋の近くには山積みにされた段ボールが置いてある。  引っ越してきてすぐだったから、まだ片付けが終わっていない。  僕が勝手に片付けようとしたら、怒られちゃったからそのままにしている。  彼の部屋の横を通り抜け、広いリビングへと向かう。  彼が帰ってきた形跡はない。  一瞬だけ彼は僕のところに帰って来てくれた。  でも、あれから2日経つけれど、まだ運命のあの子の方にいるらしい。  あの子はいいなぁ……  ずっと、ずっと一緒に居て貰えて、いいなぁ……  ハルくんが買ってきてくれたと思われる食糧を戸棚に片付け、レトルトのたまご雑炊を湯煎する。  僕が発情期になるといつも買ってきてくれるたまご雑炊。  温めたたまご雑炊をお皿に移し、ひとり静かに食べ始める。  発情期明けで弱り切った胃に、お出汁の優しい味が染みわたる。 「ハルくんに……今度、またお礼をしなきゃ……」  久々に温かい物を食べることができたお陰か、少しだけ気持ちも浮上してきたと思う。  少しだけ、元気になった気がする。  食事の後は、いつも通り部屋の後片付けをしていく。  僕以外誰もいない、彼のいない家を元通りにしていく。  汚してしまった大量の衣類を洗濯し、窓を開けて部屋を換気する。  僕のニオイで充満していた部屋が、風と共に入れ替わり、清々しい空気を感じる。 「はぁ……片付けなきゃ……。仕事も、明日からやらなきゃ……メール。メール、だけでも、連絡しなきゃ……」  溜息と共に目を閉じて今後のことを考える。  発情期(ヒート)が終わったんだから、仕事をしなきゃ……  これ以上、迷惑はかけられない。  シゲルさんがいつ帰って来てくれてもいいように、部屋も元通りに片付けなきゃ…… 「シゲルさん、いつ、帰って来てくれるの……?」  廊下の向こうに見える玄関の扉をチラッと見て、また溜息が出てしまう。  彼の名前を口にするだけで、心の奥にぽっかりと穴が開いてしまったような寂しさが募っていく。  午前中は無言で部屋の片づけをした。  午後からは自室に籠もって仕事のメールを打った。  パチパチとキーボードを叩く音が室内に響く。 「……3時、か……」  ノートパソコンを閉じ、夕飯の支度を始めようとした時、玄関の鍵を開ける音が聞こえた気がした。 「シゲル、さん?」  自室から顔を出し、入って来た人が誰なのかを確認する。  廊下に背を向け、革靴の紐を緩めている彼の後ろ姿を目にし、花がほころんだような笑みを浮かべる。 「シゲルさん、お帰りなさい」  つい先日にも会ったはずの愛しい(つがい)の顔を見て、自然と笑みが溢れてしまう。 「あの子も発情期(ヒート)が終わったの?大丈夫だった?」  彼の持っていた荷物を受け取り、ちょこちょこと彼の後についてリビングに向かう。 「あの……えっと、今回、僕もかなりキツくて……シゲルさんの服ももう全然匂いがしないんだよね。だから、その……」 『僕のそばにいて』  たったそれだけのことを言いたかったのに、言葉が詰まって出てこない。 「シゲルさん、疲れてるよね。夕飯、今から作るから、シゲルさんの好きなモノいっぱい作るね。それで……えっと……」  何度試してみても、『僕のそばにいて』って言葉だけが出てこない。 「あの子は大丈夫だった?発情期(ヒート)、ツラいよね。僕も……今回、かなりキツかったんだぁ……」  嫌だけど、運命のあの子の心配をしつつ、自分のことも知って欲しくて話しかける。  少しでも心配して欲しくて……  僕のことも知って欲しくて……  次こそ、一緒に居て欲しくて……  でも、あの子の発情期(ヒート)に付きっきりでいたせいか、シゲルさんは疲れた顔をしながら僕をめんどくさそうに見てくる。 「ん?あぁ……みつる、なんか言った?えっと、服だっけ?じゃあ今着てるヤツは置いていくよ。新しいのは洗濯してるんだろ?」  僕の話しはちゃんと聞こえていなかったのか、誤魔化すように少しだけ笑って、僕の頭を軽く撫でてくれた。  ポンって感じのすごく軽いのだったけど、それだけでも僕は嬉しかったんだ……  やっと、やっと……シゲルさんが僕の元に帰って来てくれたから…… 「明日にはあっちに戻るけど、今日は一緒にいる予定だよ」  彼の言葉を聞いて、今日だけなのかと胸がチクリと痛む。  でも、今日は一緒に居て貰える。  今日は、久しぶりに触れて貰える。  彼の匂いを感じながら、一緒に眠れるんだと思ったら嬉しかった。  だから、軽く頭を撫でられただけでも僕は嬉しかったんだ。  リビングのソファーで珈琲をひとりで飲みながらくつろぐ彼を見て、残っていた家事をさっさと済ませる。 「シゲルさん、大好き」  甘えるように彼にくっ付く。  離れていた時間を少しでも埋めたくて、彼の匂いを感じたくて、彼の胸に頬を摺り寄せる。  シゲルさんは少し困っているような笑みを浮かべつつも、頭を撫でてくれた。  晩御飯には、彼の好物をいっぱい作った。  ハンバーグにとんかつ、からあげとかに玉。 「どれも美味しい」って、彼は言ってはくれたけど、少し困ったような顔をしていた。  当然、いっぱい作りすぎちゃったから、全部は食べて貰えなかった。  いっぱい残っちゃったけど、残りは僕が明日から食べればいいだけ。  シゲルさんには、好きなものを好きなだけ食べて貰えたらそれだけでいい。  彼が喜んでくれるなら、それだけでいい。

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