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第11話

「社長!今すぐ戻ってください!」  普段冷静沈着なはずの彼女だが、電話越しの声は取り乱した様子で、事の重大さを物語っていた。 「定期的に連絡はしてたんです!ちゃんと、ちゃんと先々週は返事をくれたんです!」  涙を噛み締めたような彼女の声に、心臓を掴まれたような気がした。 「声が聞けなくても、ちゃんとメールを返してくれていたのに……昨日から、みつるさんと連絡が付かないんです!」  彼女の周りには他にも人がいるのか、彼女を落ち着かせようとしている声が聞こえる。 「私のことはどうでもいいんです!社長お願いです!早く戻ってください!みつるさんの元に行ってあげてください!」  過呼吸気味の彼女の声に、事の深刻さをヒシヒシと感じる。  ミツと最後にあった日、彼は少し寂しそうだった。  俺が3ヶ月の出張に出ると言った時、ちょっと不安そうだった。  だから、秘書である林田をあっちに残してきた。  彼女はミツと仲が良いのを知っていたから……  少しでも、些細なことでも、何かあれば彼女が力になってやれると思ったから……  3ヶ月の予定を出来るだけ早く切り上げるべく、休みも削って仕事をした。  あと少し、もう少しで戻れる段取りをしていた。  戻ったらすぐにミツに会いに行こうと思っていた。  それなのに……  彼女からの連絡を受け、仕事を現地の部下に任せて俺は一足先に戻る。  後のことは彼らに任せても問題ない。  もし何かあったとしても、ミツより優先することなど存在しない。 「先々週まで返事をくれたということは、声は聞いていないんだろうな……。ミツ、頼むから……」  新幹線の中で何度も彼のスマホに電話を掛ける。  どれだけコールを鳴らしても、ミツに繋がることはなかった。 「アナタのお掛けになった電話は、現在電波の届かない場所におられるか、電源が入っていないためかかりません」  無慈悲な電子音声だけが流れてきて、俺の心を掻き乱す。  律儀なミツの性格を考えると、仲の良い林田にすら連絡を返さないというのはそれだけの状況に陥っているということだ。  スマホを落としただけなら別にいい。俺が新しいのを買ってやる。  アイツに何かされて動けないのか?  それとも、体調を崩しているのか?  まさかもう発情期になったのか?  ミツの発情期は来週以降のはずだ。  まだ時間はあるはずなのに、さっきから嫌な予感がしてならない。  頼む。頼むから……まだ、壊れないでくれ……  間に合ってくれ……  祈るようにスマホをギュッと握り締め、早く駅についてくれることを願った。  出張先から戻るも会社には戻らず、直接ミツの住むマンションに足を運ぶ。  マンションの部屋の前で、ミツ自身にもアイツにも秘密で作った合鍵をギュッと握り締め、深く深呼吸をする。  万が一、こういう緊急事態が起こった時、いち早くミツを助けるために用意していた合鍵。  コレを使うことがないことを常々願っていた。  だが、今コレがあるお陰で、アイツに頼ることなくミツを救うことができる。  アイツが殆ど帰って来ていないことは知っている。  ミツがどれだけ隠そうとも、アイツを庇おうとも、安心することはなかった。  カチャリと冷たい金属音と共に扉の鍵が開く。  扉を開けただけで、イチゴのような甘酸っぱい香りがしてくる。  本来、(つがい)を得たΩのフェロモンは(つがい)以外には感じ取れなくなる。  だが、この家の中は忘れようもない、愛しいミツのフェロモンの匂いで充満されていた。  最後に会った日、微かに懐かしい匂いを感じていた。  ミツらしい甘くて瑞々しいイチゴのような匂い。  愛しくて、自分のモノにしたくて、奪われたくなかった匂い。  あの匂いを感じられなくなったあの日、腸が煮えくり返りそうになったのを今でも覚えている。  ずっと、ずっと求めていた愛しいΩのフェロモンの匂い。  それなのに、今は部屋のどこかしこからも感じられる。 「ミツ……?いるのか?」  ミツを探して彼の自室やアイツの部屋、リビング、浴室と順に見回っていく。  部屋はどこも荒れた様子だった。  水を飲んだ時に落としてしまったのか、キッチンには割れたコップと水の跡が残っていた。  何かを必死に探し回ったのか、脱衣所は荒らされたように散らばっていた。  アイツの部屋の前に山積みに置いてあった段ボール。  崩れて何かを探した形跡はあるものの、モノが散らばっているだけで何を探していたのかもわからない。 「……ミツ、何があったんだ」  この部屋の中にミツがいるという確信が持てる。  扉を開けていないのに、さっきよりも濃厚なミツのフェロモンの匂いを感じ、一瞬扉をノックすることすら躊躇してしまう。  αの本能が掻き立てられるような甘美な匂いに眩暈がする。  このΩを自分だけのモノにしてしまいたいという欲望が沸き上がってくる。  (つがい)がいるはずのΩを、本能が奪えというように掻き立ててくる。  念の為、先に抑制剤を飲んでいたにも関わらず、本能に飲み込まれそうになる。 「……はぁ、……はぁ。ヤバいな、これは……」  前髪をクシャっと掴み、鞄からオートインジェクター型の注射器を取り出し、太ももに打つ。  薬が効き始めるまで、その場でジッと座り込み、何度か深く深呼吸する。 「早く効いてくれ……ミツ、頼むから」  気持ちが落ち着き、改めて寝室の扉を開ける。  寝室は荒らされたように物が散乱していた。  ベッドの周りには大量の抑制剤を飲んだ跡が散らばっており、ベッドにはアイツの衣類が山積みになっている。  ミツの濃厚なフェロモンの匂いに、頭がクラクラしてくるが意識を手放すわけにはいかない。  衣類の所々に黒いシミのようなものが見えて気になってしかたないが、今はミツ自身の安全を確認することが先決だ。  ベッドに乱雑に積み上げられた衣類の山。 『Ωの巣』と言うには余りにも無理矢理で、余裕なく作ったのが伺える。  ミツが作る巣は、確かに衣類を積み上げそれを大切そうに抱きしめる形だった。  だが、今目の前にあるのはただ積み上げられた衣服の山。  どこを探してもミツの姿が見当たらない。 「……ミツ?」  この部屋からミツの匂いがするのは確かだ。  これだけ濃厚な匂いの中、本人が居ないことは考えられない。  考えられるとしたら、この山の中にミツが埋もれているということだけだ。 「ミツ?……ミツ?……出て来れるか?」  巣の中にいるであろう彼を、巣を崩さないようにゆっくり手を差し入れて探す。  グッと奥に手を差し込んでも感じるのはアイツの服だけ。  巣を崩さないように、慎重にミツ自身を探っていると、氷のように冷たい何かに指先が触れる。 「ミツ……?ミツ!」  探り当てたミツの手をギュッと握り締め、何度も名を呼びかける。 「…………」  返事がないことに最悪の事態が脳裏をよぎり、心臓が早鐘のようにドキドキとなる。 「ミツ、頼む。返事をしてくれ」  祈るように手を握ると、冷え切った手が弱々しく握り返してくれた。

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