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第15話 静かな熱
午後七時を過ぎたころ、本店営業部のフロアに「お疲れさまでした」の声がぽつぽつと響き始めた。
唐津はPCを閉じ、資料をカバンに仕舞いながら、第一部の方に自然と目を向けた。
漆原の姿は、まだ席にある。
ディスプレイに視線を落としたまま、右手だけでメモを取っていた。
声をかけようか一瞬迷ったが、やめた。
──いや、やめたふりをした。
「お疲れさまでした」
声がしたのは背後だった。
振り返ると、第一部の若手社員が、書類の束を抱えて軽く会釈してくる。
「ああ。お疲れさん。……まだ漆原部長残ってるよね」
「はい。明日のお客さま向け資料、最後の微調整をしているみたいで」
「そっか」
何気なく言いながら、唐津は視線を戻す。
漆原の席は、淡い照明の中でもひときわ静かに見えた。
長めの前髪が、ディスプレイの光を受けてわずかに影を作っている。
その下に覗く切れ長の瞳は、まばたきも少なく、まるで一心に何かを見透かそうとしているようだった。
手元には、びっしりと書き込まれた資料と、緻密な図表。
ただ黙々と、しかし異様な集中力で、何かを組み立てているような気配。
(……あいつ、たまに人間じゃないみたいな集中するよな)
ふと思い出すのは、浜松時代のことだった。
一度だけ、支店のサーバーが落ちた日に、全員が手を止めて右往左往する中、漆原だけは紙の資料を取り出して「午前の面談には問題ありません」と淡々と準備を続けていた。
何かが壊れても、決してぶれない芯がある。
あれは、第一部が新たに取り組む大型案件の企画書だったはずだ。
二日前、廊下で少しだけ話を聞いた。
「わざわざ手を出さなくてもいい」と言う声もある中で、漆原は「今、やらなきゃいけないことだと思います」と静かに言い切った。
声を荒げるわけでもなく、情熱を押しつけるわけでもない。
ただ、確信と責任のある目でそう言った。
(昔から、変わらない)
浜松時代からそうだった。
誰かにアピールするでもなく、やるべきことに粛々と向き合う。
黙々と鍛錬して、口数は少ないのに、気がつけばチームの誰もがその背中を見ていた。
──だが、唐津は違った。
当時の唐津は、要領がよかった。
喋りも得意で、明るく、人当たりがいい。
顧客にもよく可愛がられ、「うちの事業を継がないか」「娘を紹介したい」と言われたことすらある。
あるとき、商談帰りに立ち寄った蕎麦屋で、社長に「おまえは本当に得な顔してるな。娘を連れてきゃよかったよ」と笑われたことがあった。
別の日には、若い女社長に「今度はプライベートで会いたいな」と冗談混じりに言われ、唐津が流しても、部下たちは「さすがですね」と冷やかしてきた。
札幌時代も、唐津は変わらずモテた。
転勤初日から「かっこいい人が来た」と社内の噂になり、飲み会ではいつも女の子に囲まれていた。
営業先の担当者にSNSで連絡が来たこともあるし、名刺交換だけで合コンに誘われたことも一度や二度ではなかった。
一度だけ、長く付き合った彼女と結婚を意識したことがある。
札幌で出会った、同い年の落ち着いた女性だった。
しかし、彼女が転勤話を打ち明けてきたとき、唐津は責任を取ることを選ばなかった。
「お前が決めればいいよ」と曖昧な態度を取った結果、彼女の方から距離を置かれ、そのまま別れた。
いま思えば、あれが自分の限界だったのかもしれない。
本気になればなるほど、逃げ出したくなる癖。
今でも、ちやほやされることは多い。
若手の社員から飲みに誘われれば中心になるし、営業先では笑顔で迎えられる。
でも、もう夢中になって女遊びをする年でもない。
誰かといても、どこか冷めている。
(漆原って、彼女いるのかな)
ふと、そんなことが頭をよぎる。
理由もなく気になって、けれど気になるという時点で、自分の中でなにかが変わり始めているのかもしれなかった。
まっすぐ帰る気になれず、唐津はオフィスを出たあと、丸の内の裏通りにあるバーへ足を向けた。
顔なじみのマスターがカウンターの奥から手を上げる。
「こんばんは」
「……ハイボールで」
いつもの席に座り、グラスを受け取る。
琥珀色の液体をひと口飲んでみても、今日はなんだか味気なかった。
(……俺、何やってんだろ)
カウンターの向こう側、鏡に映る自分の顔をぼんやりと眺めながら、唐津は小さくため息をついた。
(隣にいるのに、手が届かない──そんな距離感、だな)
そしてまた、自然と第一部の男のことを思い出していた。
「……まったく」
グラスを揺らしながら、唐津はひとりごちた。
(俺は、あいつと並んでいたい)
その言葉だけが、なぜか胸の奥でゆっくりと残った。
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