16 / 59

第15話 静かな熱

午後七時を過ぎたころ、本店営業部のフロアに「お疲れさまでした」の声がぽつぽつと響き始めた。 唐津はPCを閉じ、資料をカバンに仕舞いながら、第一部の方に自然と目を向けた。 漆原の姿は、まだ席にある。 ディスプレイに視線を落としたまま、右手だけでメモを取っていた。 声をかけようか一瞬迷ったが、やめた。 ──いや、やめたふりをした。 「お疲れさまでした」 声がしたのは背後だった。 振り返ると、第一部の若手社員が、書類の束を抱えて軽く会釈してくる。 「ああ。お疲れさん。……まだ漆原部長残ってるよね」 「はい。明日のお客さま向け資料、最後の微調整をしているみたいで」 「そっか」 何気なく言いながら、唐津は視線を戻す。 漆原の席は、淡い照明の中でもひときわ静かに見えた。 長めの前髪が、ディスプレイの光を受けてわずかに影を作っている。 その下に覗く切れ長の瞳は、まばたきも少なく、まるで一心に何かを見透かそうとしているようだった。 手元には、びっしりと書き込まれた資料と、緻密な図表。 ただ黙々と、しかし異様な集中力で、何かを組み立てているような気配。 (……あいつ、たまに人間じゃないみたいな集中するよな) ふと思い出すのは、浜松時代のことだった。 一度だけ、支店のサーバーが落ちた日に、全員が手を止めて右往左往する中、漆原だけは紙の資料を取り出して「午前の面談には問題ありません」と淡々と準備を続けていた。 何かが壊れても、決してぶれない芯がある。 あれは、第一部が新たに取り組む大型案件の企画書だったはずだ。 二日前、廊下で少しだけ話を聞いた。 「わざわざ手を出さなくてもいい」と言う声もある中で、漆原は「今、やらなきゃいけないことだと思います」と静かに言い切った。 声を荒げるわけでもなく、情熱を押しつけるわけでもない。 ただ、確信と責任のある目でそう言った。 (昔から、変わらない) 浜松時代からそうだった。 誰かにアピールするでもなく、やるべきことに粛々と向き合う。 黙々と鍛錬して、口数は少ないのに、気がつけばチームの誰もがその背中を見ていた。 ──だが、唐津は違った。 当時の唐津は、要領がよかった。 喋りも得意で、明るく、人当たりがいい。 顧客にもよく可愛がられ、「うちの事業を継がないか」「娘を紹介したい」と言われたことすらある。 あるとき、商談帰りに立ち寄った蕎麦屋で、社長に「おまえは本当に得な顔してるな。娘を連れてきゃよかったよ」と笑われたことがあった。 別の日には、若い女社長に「今度はプライベートで会いたいな」と冗談混じりに言われ、唐津が流しても、部下たちは「さすがですね」と冷やかしてきた。 札幌時代も、唐津は変わらずモテた。 転勤初日から「かっこいい人が来た」と社内の噂になり、飲み会ではいつも女の子に囲まれていた。 営業先の担当者にSNSで連絡が来たこともあるし、名刺交換だけで合コンに誘われたことも一度や二度ではなかった。 一度だけ、長く付き合った彼女と結婚を意識したことがある。 札幌で出会った、同い年の落ち着いた女性だった。 しかし、彼女が転勤話を打ち明けてきたとき、唐津は責任を取ることを選ばなかった。 「お前が決めればいいよ」と曖昧な態度を取った結果、彼女の方から距離を置かれ、そのまま別れた。 いま思えば、あれが自分の限界だったのかもしれない。 本気になればなるほど、逃げ出したくなる癖。 今でも、ちやほやされることは多い。 若手の社員から飲みに誘われれば中心になるし、営業先では笑顔で迎えられる。 でも、もう夢中になって女遊びをする年でもない。 誰かといても、どこか冷めている。 (漆原って、彼女いるのかな) ふと、そんなことが頭をよぎる。 理由もなく気になって、けれど気になるという時点で、自分の中でなにかが変わり始めているのかもしれなかった。 まっすぐ帰る気になれず、唐津はオフィスを出たあと、丸の内の裏通りにあるバーへ足を向けた。 顔なじみのマスターがカウンターの奥から手を上げる。 「こんばんは」 「……ハイボールで」 いつもの席に座り、グラスを受け取る。 琥珀色の液体をひと口飲んでみても、今日はなんだか味気なかった。 (……俺、何やってんだろ) カウンターの向こう側、鏡に映る自分の顔をぼんやりと眺めながら、唐津は小さくため息をついた。 (隣にいるのに、手が届かない──そんな距離感、だな) そしてまた、自然と第一部の男のことを思い出していた。 「……まったく」 グラスを揺らしながら、唐津はひとりごちた。 (俺は、あいつと並んでいたい) その言葉だけが、なぜか胸の奥でゆっくりと残った。

ともだちにシェアしよう!