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第17話 しょうが焼きの夜に

漆原が浜松支店に配属された年、春の歓迎会は予想以上に盛大だった。 焼鳥の煙が立ちのぼる居酒屋の二階席。新入社員たちは端に固まり、先輩たちのジョッキが飛び交うなかで、笑顔だけは絶やさず頷いていた。 ──正直、こういう空気は苦手だ。 大人しく見られることは慣れている。だが、本当は誰よりも早く人の動きを見て、空気を読み、踏み込むべきか否かを判断しているつもりだった。 それでも、「馴染んでいない新人」として見られることからは逃れられない。 一次会が終わり、ぞろぞろと店を出る中で、漆原はひとり、流れに逆らうように早足で駅の方向へ歩いていた。 足音が後ろから追いついてくるのに気づいたのは、そのときだった。 「──漆原」 振り返れば、唐津だった。スーツの襟を片手で正しながら、やや乱れた前髪の下から垂れた目が、まっすぐこちらを見ていた。 「帰んの? 二次会行かねえの?」 「……すみません。酔ってしまったみたいで」 「ふうん」 唐津はそれ以上何も言わず、しばらく並んで歩いた。 沈黙が続いたあと、ぽつりと言った。 「緊張してたろ」 「え?」 「今の飲み会。顔、固かった」 図星だった。 漆原は、思わず視線を逸らした。 「俺も最初のときはそうだったよ」 「……唐津さんが?」 「そう。俺だって、人の輪に入るの苦手だったし。でもな、営業ってのは、場数がすべてだから」 そう言って、苦笑する。 「でも、おまえは見てるよな。人のこと。たぶん、誰よりも」 心臓が跳ねた。 観察しているのは、こっちのつもりだった。 でも、見られていたのは自分のほうだった。 「飯ぐらい、付き合えよ。……な?」 唐津の言葉に、漆原は小さくうなずいた。 あの夜、二人で入った定食屋のカウンター席。唐津が頼んだしょうが焼き定食の香り、夜の街の音、黙って並んで食べた空気。そのすべてが、漆原の心に焼きついていた。 何を話したわけでもない。ただ、唐津が時おり「味濃いな、これ」「おまえ少食だな」などと気楽に声をかけてくれるたびに、漆原の胸の中にあった緊張の壁が少しずつ、崩れていった。 ──あの人は、自分に何かを求めているわけじゃない。ただ、そばにいてくれる。 たったそれだけのことが、こんなにも救いになるのかと、漆原は初めて知った。 * それから一年が経った。 漆原は営業の仕事にも徐々に慣れ、クライアントとの打ち合わせもひとりでこなせるようになっていた。だが、ある提案が失敗に終わった夜──その静かな痛みは、今でも忘れられない。 「──これじゃ、ダメだろ。詰めが甘いよ」 直属の上司にそう言われたのは、チームの定例ミーティングの席だった。 他のメンバーが何も言わずにうつむく中、漆原は一人、平然を装ったままその場を後にした。 責任は、明確だった。資料の一部に不足があり、想定した提案が通らなかった。クライアントからの信用を失ったわけではないが、社内の空気は明らかに冷たかった。 その日の夜、漆原は誰にも声をかけず、自席でひたすら資料の見直しをしていた。 時計の針は二十二時を回っていた。 フロアの明かりは間引かれ、オフィスはほとんど無音だった。 Excelのセルを一つずつ見直し、配色や注釈の位置まで整える。黙々と作業を続けていると、背後から足音がした。 「……まだいたのかよ」 聞き覚えのある声に振り向けば、唐津が立っていた。 「唐津さん……」 「もう帰ったかと思ってた。電気、ほとんど落ちてんぞ」 そう言いながら、唐津は無言で机の端に缶コーヒーを置いた。漆原がよく飲んでいる銘柄だった。誰にも言っていないのに、いつの間に気づいていたのだろう。 「提案、悔しかったよな」 「……はい」 「俺もやらかしたことある。的外れな提案で赤っ恥かいたのに、クライアントのほうが『気にすんな』って慰めてきたこともある」 「それは……それは辛いですね」 思わず笑ってしまった自分に気づいて、漆原は驚いた。 「おまえのは、ミスじゃなかった。切り口も、考え方も、悪くなかった。ただ、あのクライアントにはちょっと合わなかっただけだろ。相性みたいなもんだ」 その言葉が、どれほど漆原を救ったか。 胸の奥に、じわりと熱が広がった。 「……俺、辞めたほうがいいのかと思ってました」 自分でも驚くくらい自然に、言葉がこぼれた。 唐津は目を見開き、しかし否定もせず、ただ静かに隣の席に腰を下ろした。 「そんなふうに見えなかったけどな。……強がってたんだな」 「……はい。誰にも言えなかったです」 「でも、言えてよかったじゃん。俺には」 その言葉が、確かに届いた。 唐津は、漆原の四歳年上だった。 けれど、当時の自分にはそれ以上の差があるように感じていた。 視野の広さも、度胸も、軽やかに人と接するその姿も、自分にはないものばかりで。  背中が大きく、遠かった。 ──だけど、そんな唐津が、隣に座ってくれていた。 あの夜、すべてが報われたわけじゃない。 けれど、漆原の中でひとつ、大きな何かが変わった。 ──誰かが、自分を見ていてくれた。 それを知っただけで、また前を向ける気がした。 * 今、こうして再び唐津と並んで仕事をしている。 十年の時間を経て、肩を並べている。 あのとき救われた気持ちは、今も確かにここにある。 そして、静かに漆原は思っていた。 (ずっと、となりにいたいと思っていたのかもしれない)

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