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第18話 となりにいてくれるなら

 取引先との大型案件をめぐって、漆原と唐津が再びチームを組むことになったのは、九月の初めだった。  内容は、地方自治体との連携を含む資産運用戦略。複数部署との調整も含めて相当な手間がかかる案件で、唐津が旗振り役となり、漆原が実務責任者として加わる体制になった。 「相変わらず、顔がいいなあ。唐津部長が窓口ってだけで先方の反応が違う」  会議後のエレベーターホールで、唐津の部下の女性社員が笑いながら言った。 「おい、やめろ。そういうのセクハラだぞ」 「褒めてるんですよー」  唐津が肩をすくめる横で、漆原は何も言わなかった。  ──わかっている。唐津は、昔から信頼される人だった。  頭の回転が速く、場の空気も読める。そして、誰にでもフラットに接することができる。  けれど、今その姿を見ていると、ほんの少しだけ、胸の奥がざわついた。  唐津が自然に話しかけられ、軽口を交わし、笑いを取るその様子が、自分とはまったく異なる人間のように思えた。 (……眩しい)  十年前、自分を食事に誘ってくれたあの夜とは、もう別人のようだった。 「漆原」 「……はい」 「明日の提案、俺から入って、おまえが仕上げる流れでいいか?」 「問題ありません」 「よし。……あ、今日さ。飯行かねえ?」 「え?」 「せっかくだし、久々に飲みたい。ちゃんと話したいし」 「……じゃあ」  有楽町の裏通りにある小さなバーは、唐津の行きつけらしかった。  木のカウンターに間接照明。落ち着いた空気に包まれて、唐津の輪郭がやけに柔らかく見えた。  その姿を見ながら、漆原はふと思った。こんなふうに落ち着いて、ふたりで向き合って話すのは何年ぶりだろう。 「……うまいな」  唐津がバーボンを口にして、唇の端で笑った。 「漆原、酔ってる?」 「飲んでないです。朝イチで役員報告なので」 「真面目か」 「そういう係ですから」  唐津が笑う。  その横顔に、思わず視線を奪われた。 (変わらないな……)  けれど、ふとした瞬間、何かが胸を刺す。 「──唐津さん」 「ん?」 「……どうして、そんなに皆から好かれるんですか」  一瞬、唐津の表情が固まった。 「え?」 「俺にはできない。だから……なんか、焦ります」 「……」 「俺なりに努力してるつもりだけど、たぶん、唐津さんがいるだけで雰囲気が変わる。みんな安心してるし……」  言葉が途切れた。  酔っているのは、自分のほうかもしれない。  だが、唐津は否定も驚きもせず、ただ少しだけグラスを回して言った。 「俺のほうこそ、焦ってたけどな」 「え?」 「おまえ、前よりずっと落ち着いた。説明も論理的で、詰めも正確。正直、仕事の面では……今のおまえのほうが、信頼されてると思う」  その言葉が、まるで胸の奥に静かに沈んでいく。 「そんなこと……」 「本当だよ」  唐津の声は、冗談じゃなかった。  誤魔化すように水を口に運んで、漆原は視線を外した。 「……それ、もっと早く言ってください」 「言うタイミングがなかった」 「唐津さんは、昔からそうですよね」 「どういう意味?」 「人の懐に入るのがうまいくせに、自分のことは話さない」 「……うん。確かに」  沈黙が落ちた。  ふと、唐津が視線を上げて言った。 「なあ、漆原」 「はい」 「おまえがいなくなったら、俺ちょっと困るかも」  それは、笑いながら吐き出された言葉だった。  だが、漆原は返せなかった。  視線の奥に、一瞬だけ、何か切実なものを感じた気がした。 「……」  唐津はもう、グラスを見つめている。 (冗談だ。そう、冗談だ)  そう思えば思うほど、胸の奥がざわついた。 *  バーを出たときには、すっかり夜も更けていた。 表通りはまだ明るく、ネオンが遠くに滲んでいる。 「歩くの大丈夫ですか」 「んー、大丈夫。ちょっとフラつくけど」 「タクシーにしましょう」 「いいって。おまえと歩きたい」  その言葉に、漆原は反応しないふりをした。  足取りのおぼつかない唐津の腕を軽く支えながら、しばらく歩いた。  その歩みはゆっくりで、まるで時間が引き伸ばされていくようだった。  街灯の光が唐津の頬に柔らかく落ちて、漆原はそれを何度も盗み見てしまう。 「漆原」 「はい」 「さっきの話だけどさ。おまえがいなくなるの、ほんとやだな」 「……異動、ですか?」 「いや、わかんねぇけど。なんかさ、おまえといると楽なんだよ。何考えてるか、だいたいわかるし」  そんなふうに思ってくれているとは思わなかった。 「……俺は、唐津さんが隣にいると、少し背筋が伸びます」 「へえ」 「安心というより、緊張に近いです」 「俺、緊張させてるの?」 「ええ。……でも、それがたぶん、心地いいんです」  唐津は少しだけ振り返って、笑った。 「そっか。なんだそれ」 結局、途中でタクシーを拾って、唐津の家まで送った。  マンションの前で足を止める。 「……鍵、出せますか」 「出せる。てか、大丈夫。ここまでありがと」  唐津が玄関を開けて、中へ入ろうとしたとき── 「唐津さん」  漆原は、咄嗟に呼び止めていた。 「……なんか、あったら、すぐ言ってください」 「え?」 「困る前に。……俺、いますから」  唐津は、驚いたようにこちらを見た。  数秒の沈黙ののち、やがて笑って、頷いた。 「……ああ。頼りにしてる」  その言葉だけを残して、ドアは静かに閉じられた。  その夜。  漆原は、眠れなかった。  不安でも、後悔でもない。  ただ──唐津の言葉が、胸の奥で、何度も繰り返し響いていた。 『おまえがいなくなったら、俺ちょっと困るかも』  それが本音だったのか。  それとも、ただの酔いのせいか。  わからないまま、朝が来るのを待っていた。

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