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第19話 たぶん、寂しいと思う

  大型案件の山場を越えたその夜、漆原と唐津は、打ち上げを兼ねてふたりきりで飲みに出かけた。 向かった先は銀座。 ネオンの明滅が、漆黒の舗道に複雑な光を落としている。ビルの谷間をすり抜けるように歩きながら、スーツ姿のふたりは、銀座の街に静かに馴染んでいた。 通りには、ハイヒールの音やタクシーのホーンがまばらに響いている。すべてがどこか遠く、まるで劇中の背景のようだった。 「こっち」 唐津が軽く手を挙げて示した路地は、看板も目立たず、通り慣れていなければ素通りしてしまいそうな細い道だった。 その奥にひっそりと佇むバーの前で立ち止まる。木製の扉は重厚で、ほんの少しだけ、中の音を漏らしていた。 扉を押すと、内装はモダンで落ち着いており、温かい間接照明が空間を柔らかく包んでいる。 カウンターの奥では、白髪混じりのマスターが静かにグラスを磨いていた。 「いらっしゃいませ」 その声も、場所にふさわしく低く、丁寧だった。 二人が通されたのは、L字カウンターの角。すぐ隣に座るには十分近く、けれど会話の邪魔にならない絶妙な距離感だった。 「ようやく、一区切りって感じだな」 唐津がそう言ってグラスに口をつける。注文したのは、シングルモルトのハイボール。 「はい。正直、疲れました」 「漆原も、今日くらい飲めば」 「……じゃあ、一杯だけ」 「お。いいね」 唐津が目を細めて笑う。 漆原は少し間を置いてから、ロックでウイスキーを頼んだ。グラスに注がれた琥珀の液体は、控えめに揺れている。 「疲れたときは、甘いやつよりこっちのがいいですね」 「へえ、そんなこと言う日が来るとは思わなかったな」 ふたりとも笑った。 沈黙が、少しやわらいだ気がした。 ──唐津と向き合って飲む酒は、想像よりずっと静かで、熱を持っていた。 軽く笑って、琥珀色の液体を傾ける唐津。グラス越しに照明の光が透け、彼の指先の骨ばったラインや喉の動きが、妙に目を惹いた。 ふたりきりで話すのは、やはり気を遣う。 いや──気を遣っているというより、唐津が気になって仕方ない。 それが正確だった。 「……もう、異動とかないといいですね」 ふいに、漆原がぽつりと呟いた。 「ん?」 「今のチーム、やりやすくて。悪くないので」 「俺も。……てか、おまえがいると、仕事がうまくいくからだよ」 さらりと、あまりに自然に言われたその一言に、漆原はグラスを持つ手を止めた。 耳の奥が熱い。 だが唐津は、何でもないことのようにハイボールを口に運んでいる。 「……また、そういうことをさらっと」 「事実を言っただけだって」 ほんの少し笑って、グラスを置いた唐津の目は、どこか優しさを含んでいて── 見てはいけない気がして、漆原は視線を逸らした。 それでも、唐津の横顔はずっと視界の端にあった。 シルエットが柔らかく滲むほど、照明は控えめで、空間は静かだった。 会話も途切れがちになる。だがそれが不快ではなく、むしろ心地よいと感じるのが不思議だった。 * 店を出ると、夜の銀座は、しっとりとした雨に濡れていた。 コンクリートの匂いに混じって、アスファルトが雨を吸い上げるような匂いが立ちこめる。 「……降ってきましたね」 「傘ないな。どうする?」 「店に戻りますか?」 「いや、もう一軒探すのもだるいな……うちで、ちょっと飲み直すか」 ふいに言われたその提案に、漆原は一瞬戸惑った。 どちらでもない表情で唐津を見返し──頷いた。 「……はい」 雨の中を歩く。 唐津の歩幅は変わらず、無言で先を行く後ろ姿が、どこか頼もしく見えた。 その背中に、手を伸ばせたらと思う自分に気づいて、漆原はまた視線を落とした。 * 唐津の部屋は、八丁堀にあるマンションだった。 白とグレーでまとめられた空間。飾り気はないが、必要なものはきちんと揃っている。 使い込まれたソファや読みかけのビジネス書、無造作に置かれた靴── そこに彼の生活があり、日常があった。 「悪いな、濡れたままで」 そう言いながら、唐津は上着を脱ぎ、シャツのボタンに指をかけた。 濡れた白い布が、肌に張りつく。 その下にある筋肉の陰影が透け、ラインを浮かび上がらせていた。 (見ちゃいけない) そう思いながらも、つい目が滑る。視線を戻せない。 すぐ隣にいる唐津は、意識すればするほど、手の届かない場所に思えた。 「なに、気まずい? 俺といると、緊張する?」 「……するわけ、ないです」 強めの声で返したつもりだったが、どうしても芯が入らない。 視線は泳ぎ、どこかに逃げ場を探していた。 唐津はそれを見逃さず、片眉を上げて見せた。 ふたりの間に、静かな間が落ちる。 雨音すら聞こえないほど、部屋の中は静かだった。 「やっぱりさ。おまえがいなくなったら、俺……だいぶ寂しいと思う」 不意に唐津が言った。 それは、唐突で、抑えのない言葉だった。 息を呑んだ。 時間が、わずかに止まった気がした。 ──冗談なのか。本気なのか。 どちらか、唐津は明かさない。 その曖昧さに、漆原は耐えられなくなった。 (それ以上言われたら、もう戻れなくなる) その予感があった。 「……俺、帰ります」 すっと立ち上がる。 唐津は一瞬目を見開いたが、すぐにその表情を緩めた。 「……そっか」 玄関に向かう背中に、唐津の声が追いかけてきた。 「気をつけて帰れよ」 振り返らなかった。 顔を見たら、決心が揺らぎそうだった。 * 外はまだ、雨が降っていた。 ビルの明かりが水たまりに反射し、街全体がぼんやりと滲んで見える。 傘を持たないまま、漆原は静かに歩き出した。 濡れた髪が首筋に張りつく。だが、それに気づく余裕もないほど、胸の奥がざわついていた。 (おまえがいなくなったら、俺……だいぶ寂しいと思う) その言葉が、繰り返し耳の奥で再生される。 一杯だけの酒。アルコールが入ったことで、感情の輪郭がやや曖昧になっている。 抑え込んでいたものが、少しだけ浮き上がる。 (やっぱり……うちで飲み直す、なんて言わなければよかった) そう思いかけて、すぐに打ち消す。 唐津の「寂しいと思う」の一言を、まだ心の中で引きずっていた。 唐津が本気だったのか、酔っていただけなのか。 確かめようとすれば、きっと崩れてしまう。 ──どちらでもいい。 ただ、それを聞いた自分の心が動いた。 それが、事実だった。

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