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第20話 触れそうで、触れない
唐津の部屋を出た翌朝、漆原はいつもより早く目が覚めた。
雨はまだ止んでいなかった。
カーテンの隙間から射し込むわずかな光も、街全体が湿っているようにくすんでいた。
シャワーを浴び、髪を整え、ネクタイを締めながら鏡を見た。
そこには、いつもと変わらぬ顔の自分が映っている──ように見えて、その目だけが、昨日の続きを知っていた。
(……俺、帰ります)
言わなければ、何かが起きていたのかもしれない。
でも、それは望んでいいことだったのか。
唐津は、たぶん、何も気づいていない。
気持ちにも、距離にも、危うさにも。
あの人は、無自覚で人の境界を越えてくる。
だからこそ惹かれて、だからこそ苦しくなる。
午前七時、本店29階。
漆原は、営業第一部のフロアへと静かに足を踏み入れた。
唐津のいる営業戦略室の一角が、自然と視界に入る。
デスクで資料を読んでいた唐津が、ふと顔を上げた。
目が合う。
ほんの一瞬。だが、昨日の夜がすべてフラッシュバックする。
唐津はいつも通りの顔で、小さく顎を引いた。
その顔には、昨夜の発言──「寂しいと思う」というあの言葉の余韻はなかった。
いや、もともと彼にとっては、あれは「特別」じゃなかったのかもしれない。
漆原のことを「信頼できる部下」として、いなくなったら困る、と言っただけ。
(……それだけだ)
そう自分に言い聞かせる。
午前中の会議ラッシュ。
漆原は資料を持って、何度もフロアを移動した。
そのたび、唐津の姿が視界の隅に引っかかる。
唐津は今日も、部下に囲まれていた。
大口案件の会議室で、マーカーを手にホワイトボードへ図を描いている。
軽く笑いながら部下の肩を叩き、少し冗談を飛ばし、真剣な顔で提案書を修正させる。
そのすべてが、隙がなくて、魅力的だった。
けれど──そのどこにも、自分だけへの特別はなかった。
(当たり前だろ)
昨日、部屋でふたりきりだったこと。
濡れたシャツ、近い距離、止まりそうな間。
あれは“たまたま”で、“事故”で、
唐津にとっては「仲の良い男同士」だからできること。
そして唐津は、女が好きだ。
昼過ぎ、唐津がふらりと第一部の島へやってきた。
周囲の部下たちがそっと視線を向ける。
「漆原」
声をかけられて、心臓が跳ねる。
まわりの視線を背に、漆原は「はい」と返すだけで精一杯だった。
「ちょっと確認。こないだの案件、A社側の稟議、どう動いてる?」
「昨日の夜に合意が取れて、今週中に社内決裁の見通しです」
「そっか。じゃ、うちのスケジュールも巻いとく」
唐津は、思ったよりあっさりと話題を終えた。
業務の話。それだけ。
あの夜の続きを仄めかす言葉も、目の色もない。
漆原の胸に、ささやかな期待が刺さる。
そしてそれが、ゆっくりと苦味に変わっていく。
(そりゃそうだ。なんでもない夜だった。……俺だけが、考えてる)
午後、給湯室に行くと、唐津がコーヒーを手にして立っていた。
「おつかれ」
「……おつかれさまです」
唐津は、あくまで自然体だった。
昨日の夜、自分の家に呼んでおいて、部屋で“寂しい”と呟いた男とは思えないほど、落ち着いた笑顔。
「昨日さ、ウイスキーちょっと飲んでたよな」
「……はい」
「案外、似合ってた」
唐津は軽く笑って、缶コーヒーを手渡してきた。
ふと、指先がかすかに触れた。ほんの一瞬だった。
(……また、平気な顔して)
唐津は本当に、なんでもなかったみたいに笑う。
昨日の夜、あの距離で、あの言葉を言った人とは思えない。
「俺、ああいう落ち着いた店って好きなんだよな」
「……そうなんですね」
平静を装って答えるのが精一杯だった。
唐津は、たぶん良かれと思って話している。
楽しかった、また飲もう──きっと、それだけ。
(それだけ、か)
「また行こう。あのバー、気に入ったなら」
そう言って、唐津は自然に肩に触れてくる。
悪気のないスキンシップ。たぶん、誰にでもしてる。
──けれど、触れられるたびに、傷がひとつ増える気がした。
「……やっぱ、帰ってよかったです。昨日」
小さく呟いた漆原に、唐津は不思議そうな顔を向けた。
「は?なんで…… 」
それが答えだった。
何もなかった。唐津にとっては。
だから、なかったことになっている。
わかっていたはずだった。けれど、いざ言われると、思いのほか堪えた。
「……すみません、戻ります」
漆原はコーヒー缶を手に、給湯室を出た。
振り返らなかった。振り返れなかった。
後ろにいる唐津の顔が、これ以上、優しくありませんように。
そう祈りながら、足を早めた。
夜。帰宅しても、熱は引かなかった。
唐津の声、目線、匂い、距離。
すべてが漆原を惑わせ、苦しめた。
唐津が、漆原を大切にしてくれているのはわかる。
けれどそれは、“恋”じゃない。
無自覚な“優しさ”が、いちばん厄介だ。
──あんな顔で、触れないでくれ。
(俺は、好きなんだから)
唐津に伝えたくて、でも伝えられなくて。
キスをするには、まだ遠くて。
でも、もうその手前まで来ていた。
唐津が無自覚である限り、この関係は、終わりか、壊れるかしかない。
だからいま、揺れているのは漆原だけ。
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