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第21話 言わなければ、壊れない
翌朝、漆原はいつも通りの時間に出社した。けれど、心は静まっていなかった。
唐津が触れてきた肩の感触。軽くて、無防備で、優しかった。その優しさが、いまは毒のように効いていた。
(あの人の優しさが──俺を壊す)
唐津は無意識に境界を越えてくる。だが、そこに悪意はない。ただ、少し人より優しいだけ。
だからこそ、どうしようもない。
午前のミーティング中、漆原はいつもより口数が少なかった。
案件の進捗は頭に入っていたし、会話の流れも正確に把握している。
だが、書類に視線を落としたまま、ペン先は紙の上で何も描かないまま止まっていた。
周囲が笑う場面でも、漆原だけは反応が半拍遅れていた。
(伝えたいわけじゃない。伝えずに済むなら、それが一番いい)
(ただ……このままじゃ、持たない)
自分ばかりが意識しているようで、惨めだった。
でも、唐津を責めたいわけじゃなかった。
むしろ──巻き込みたくなかった。あの人の優しさが誰にでも向けられているのだとわかっているから。
昼すぎ、給湯室に向かう途中、営業戦略室の前を通った。
唐津が誰かと話している。視線を向けると、それは隣の部署の若い女性社員だった。
唐津は柔らかく微笑みながら、相手の目を見て丁寧に頷いていた。
彼女は、控えめながらも緊張と嬉しさが入り混じったような笑顔を浮かべて、時折、声を弾ませる。
(……あの子、唐津さんのこと、好きなんだろうな)
そう思ったとき、胸の内に小さな針が刺さったような感覚が走った。
唐津は──気づいているのだろうか。
あるいは気づいていて、受け止めずに受け流すことが、もう癖になっているのかもしれない。
無意識に優しくするのか、それとも意識したうえで曖昧に接しているのか。
どちらにせよ、唐津の立ち振る舞いは、他人の心を揺らすのに十分だった。
(……ああいうふうに、誰にでも優しい)
別に、特別な意味があるわけじゃないのはわかっている。唐津はいつもああだ。年齢も性別も問わず、部下にはよく話しかけるし、ちゃんと褒めもする。
──なのに、心がざわついた。
給湯室でコーヒーを淹れながら、唐津の声が脳裏にこだまする。
「昨日のバー、また行こうな。ああいう雰囲気、案外好きだろ?」
それは、自分だけに言われた言葉だったはずなのに。
いまはどこかで、同じように別の誰かにも言っているような気がした。
(……期待するほうが、悪い)
気づかれないように吐いた息が、少し熱を帯びていた。
その午後、唐津が島にやってきた。
「さっきの資料、読んどいてくれた?」
「はい、確認済みです」
「助かる。じゃ、明日朝イチ、あの件ちょっと詰めよう」
会話は仕事だけ。けれど、目元は柔らかい。
誰に対しても、こういう顔をするのだ。
──だけど。
漆原は知っている。距離がほんの少し近いときだけ、唐津の目の奥が揺れる。
ほんの一瞬。それが、自分だけに向けられたものであってほしいと、思ってしまう。
夕方になっても、そのざわつきは収まらなかった。
かえって、落ち着かない胸のうちを振り払うように、漆原は無理やり仕事に集中した。
数字の再計算、見積もりの修正、部下から回ってきた報告の精査、メールの返信。
ひとつひとつを丁寧に片づけていくうちに、心の痛みが少しだけ薄れていく気がした。
(こうしてると、少し楽だ)
脳の奥が働いているときだけ、唐津の姿が遠のく。
優しさも、無自覚な言葉も、ふいの微笑みも、いっとき忘れられる。
だから、漆原は残業を続けた。定時をとうに過ぎても、席を立つ気配はなかった。
一緒に残業していた課長の眞壁が「おつかれさまでした」と言って帰っていった。
オフィスの照明が少しずつ落ちて、フロアがまばらになる。だが、漆原は手を止めなかった。
何かに取り憑かれたように、デスクに向かい続けた。
数字とロジック、効率と収益性──それだけが、感情の波を忘れさせてくれる。
──唐津の声が聞こえない場所に、ずっといたかった。
夜、本店長への報告を済ませて自席に戻ると、机の上に唐津の字でメモが置かれていた。
『明日の資料、さっきのやつに追加して。あと、無理すんな』
ふざけてるわけじゃない。きっと、本気で気遣ってくれている。
──でも、いちばん無理してるのは、あなたのことだ。
その夜、家に帰っても眠れなかった。
スマホを開いては閉じ、天井を見上げては目を閉じる。
「……伝えたら、楽になるのかな」
言葉に出して、かすかに笑った。
楽になるかもしれない。でも、唐津を困らせたくない。
それに、壊れるかもしれない。
だから言えない。伝えない。伝えないで、どうにかする方法を探し続けている。
漆原の感情は、もう限界のぎりぎりだった。
だが彼は、最後の一線を越えなかった。
自分から壊すことだけは、したくなかった。
だから今も、黙って笑っている。
触れそうで、触れない距離で。
その痛みに、ひとり耐えていた。
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