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第9話

「やっぱ、今度からは素直に合コンって言えよ」  個室の座敷に案内された千春と仙太郎は、待機していた下前に呆れ顔で言った。  長テーブルの両端にはずらりと座布団が敷かれ、結構な人数の『飲み会』なのが一目瞭然だ。 「いいや、これはあくまで飲み会だ。看護学生との親睦を兼ねたな」  しれっと言う下前に、仙太郎が呆れたように目をやる。 「女子と交流したいのはこいつだよな」と、千春の耳元に囁いてきた。 「じゃ、そういうことで。俺はホスト役で忙しいからな、お前らも楽しめよ」  颯爽とした敬礼を見せると、下前はやって来た参加者を、嬉々して出迎えに行った。  招待された女性陣が、どこの場所に座ろうかと立ち竦んでいると、すかさず下前が案内している。  千春と仙太郎は下前の、やに下がった顔を横目に、一番奥の席に腰を据えた。 「ま、会費分、飲んで食って楽しむか」  仙太郎がメニューを手にしながら、ウィンクするから千春も、「だな、外食久しぶりだし」と言って、横からメニューを覗き込んだ。  飲み物を選んでいると、下前が一人の女性を連れてやって来た。なぜか顔が得意げだ。 「お前ら、男同士で並んでるんじゃない。ほら、間に彼女に座ってもらえ」  看護師の制服が似合いそうな清楚系美人が、千春と仙太郎に微笑みかけている。  その横から、席を開けろと、下前に視線で言われ、仙太郎が座布団ごと真横へとスライドした。女性と軽く会釈を交わしていると、下前の仕切る声が聞こえてきた。  交流会という名の合コンが乾杯の音頭で始まると、個室は一気に盛り上りを見せた。  千春がビールを口にしたタイミングで部屋の襖が開き、何気なく目を向けていると、遅れてきたのか、男性が謝る素振りを見せながら空いていた席に腰を下ろしている。  見たことのない人だなぁと思い、それもそうかと思った。  今夜のメンバーは学部がバラバラで、知らない顔がいても不思議ではない。  仙太郎が女性と話しこむ姿越しに部屋を眺めていると、その遅れて来た男性と目が合った。  にっこりと自然な笑みを向けられ、千春もつられて微笑んだ。  テーブルの端と端から視線だけの挨拶をしたけれど、そこからどうしていいかわからず、下を向いてしまった。  数秒後、そっと顔を上げると、彼は隣の人ともう楽しそうに笑っている。  くっきりとした二重に、目尻に向かって上がっている睫毛がミステリアスだった。  深い栗色のマッシュヘアは、透け感のある真っ直ぐな前髪が柔らかそうで、笑う度に揺れている。  彼の輪郭だけが柔らかな光に縁取られたようで、少し現実から浮いて見えた。  仙太郎に飲み過ぎるなよと言われ、ハッとして我に返る。 「分かってる」と、慌てて返事をした。  僅かな時間だったけれど、彼に心が奪われていたのを隠すように。  宴は佳境に入り、酩酊する者、介抱するものと自然に役割が分かれていく。  そんな中でも、今夜の趣旨を全うすべく、互いの連絡先を交換する姿もちらほら見えた。  二杯のビールだけで酔いが回った千春は、火照った顔を冷やそうと、氷を探したけれどテーブルの上には見当たらない。 「仙太郎、氷もらってくるな」と、声をかけて席を立った。  部屋を出ると週末なこともあって、スタッフはみんな忙しそうだ。  顔でも洗うか……。  トイレの手洗い場で熱を剥がすように顔を洗っていると、背中に人の気配を感じた。  濡れたままの顔で千春が振り返ると、さっき遅れて来たイケメンが立っていた。 「拭くものあるの」と、千春にタオルを差し出してくれている。 「だ、大丈夫です、あります」  ハンカチを見せながら、ありがとうございますと、付け加えた。 「平気?」  質問の意味をすぐ理解出来ず、返す言葉を探していると、「顔、真っ赤だよ」と、たおやかに微笑まれた。  親しみを感じる漆黒の瞳で見つめられると、どうしていいか分からず、千春は瞳を泳がせてしまった。 「やっぱ、酔ってるんじゃない?」  顔を近づけて囁かれた途端、炭酸の蓋を耳元で開けられたように、ビクッと体を反応させ、「よ、酔ってないです」と慌てて否定した。  男性は、ふーんと言いながら、千春の横を通り過ぎてシャツの袖口を水で濡らしている。  ギョッとして見ていると、布同士を必至で擦り合わせていた。  水色のシャツの袖口だけ色が濃く変わり、水分を含んで重そうだ。 「あ、あの……それどうしたんですか」  流水の下で揉み洗いする姿に尋ねると、男性が袖口部分を向けて、「参ったよ」と、苦笑を見せてくる。 「醤油が付いたんだ。これ気に入ってたのにさ」  男性は憂鬱そうにまた布を擦り、懸命にシミを撃退しようとしている。  秀でた横顔にまた見惚れてしまった千春は、思い出したように、あ、と叫んだ。 「俺、染み抜きシート持ってるんです。取ってくるのでちょっと待っててください」  男性の返事も聞かず、俊敏に踵を返すと、千春はトイレから出て座敷に戻った。  席に戻るとかばんの中に手を突っ込み、目当てのものを掴むと、仙太郎に声をかけられたのも気付かず、再びトイレへと直行する。 「お、お待たせしましたっ」  声を掛けたと同時にドアを開けると、男性が「おー」と短い返事をくれる。 「これ、使って下さいっ。付いたばかりのシミだったら結構落ちるんです」  男性の前にシートを差し出した千春は、ポカンとしている顔に、「あ、おせっかいでしたよね」と、手を引っ込めようとした。  だが、去って行こうとする手首を引き止められ、指先からシートをスッと抜き取られる。 「もらうよ、助かる」  男性は袋を開封すると、シミの付いた箇所にシートをリズミカルにあてている。  勧めたものの効果が気になった千春は、男性の仕草をジッと見守っていた。 「おおっ! 薄くなってきた。すげぇ」  テンションの上がった男性の言葉に胸を撫で下ろし、「よかった」と、肩で息を吐いた。 「けど、こんなのよく持ってたな」  シミが消えたことに感動した男性が、秀麗な笑顔で、「ありがとな」と言ってくれる。  光に包まれたような笑顔が眩しく、千春は床へと視線を落として、その光を遮った。 「お、俺、そそっかしいからいつも持ち歩いてるんです。前に白いシャツにカレーうどんのシミつけちゃって凄く困ったから」 「あー、カレーうどんな。俺もやった。あと、ミートソースな」 「そうそう、それも経験済みです。そのときはコンビニに走って買いましたよ」  分かるわぁ、と男性が共感してくれる。  砕けた口調が嬉しくて、千春はさっきまでの動揺を忘れて答えていた。 「俺は上条惠護(かみじょうけいご)。工学部建築学科の二年。君は?」 「えっと……鵜木千春って言います。一年生で心理科学部、です」  よろしくお願いしますと、頭を下げた千春は、差し出されていた惠護の手に気付くのが遅れ、しなやかな手を慌てて握り返した。 「チハル君か、どんな字?」  手を取られたまま聞かれたから離すタイミングを失い、握手したままで、「千に春です」と答えた。 「千に春ってことは春生まれだ。『千春』の意味ってさ、何回も春を迎えられる、いや違った、何回も誕生日を迎えられるように、だよな」  秀麗な笑顔で放たれたその言葉は、世間的にはありふれていても、千春にとっては特別だった。  葵留先輩にも同じことを言われたっけ……。 『ちは』と、耳に残る声がふとよみがえり、胸がきゅっと締めつけられた。  葵留がくれたこの名前は、今も変わらず、愛おしくて大切なもの。  思い出に意識が引き込まれていると、「やっぱ酔ってる?」と惠護がまた心配してくれる。 「あ、いえ。酔ってません……から」  手洗い場に背を向け、後ろ手で台に手をついた惠護が、首を傾げてこちらを伺ってくる。  深みのある栗色の前髪がはらりと流れ、そのささやかな仕草に、千春の視線は自然と吸い寄せられた。  形のいい唇が開きかけた、その瞬間——ドアが勢いよく開いて、千春の体も心もビクリと跳ねた。 「惠護いたっ! やっぱトイレに逃げてたな、この飲み会男!」  友人らしい男性が顔を出すと、惠護の方を指さしながら叫んでいる。  さっき惠護の横に座っていた男性だ。  飲み会男って……そんなにお酒、好きなのかな。  千春が二人のやり取りを見ていると、惠護が「変なあだ名つけるなよ」と文句を返している。 「せっかくトイレに避難してたのになー」 「避難ってことは、やっぱ逃げてたんだな。惠護がいないって、女子たち騒いでたぞ。一応、俺が〝長ーいトイレタイム〟だろってフォローしといたけどな」  友人らしき男性がニヤついて言うと、「長いは余計だ」と惠護が軽く言い返し、千春に向かってウィンクしてきた。  目の前を通り過ぎる惠護の手が、ふわりと千春の頭に触れ、髪をクシャリと撫でてきた。  その瞬間、覚えのある香りがふっと漂う。  この匂い——。  振り返ったときには、もう惠護の姿はなく、鼻腔をくすぐるその香りだけが、空気の中に残っていた。  忘れたくても忘れられないその香りに、心臓がドクンと跳ね、身体中を電流のような感覚が走った。  その瞬間、千春の中で押し込めてきた記憶と感情が、波のように一気に押し寄せてきた。  名残を引く、スモーキーで甘い香り……。  それを胸いっぱいに吸い込んだ瞬間、視界がふわりと滲んだ。  鼻の奥がツンと痛み、冷たい水に触れなければ、この熱を逃がせない気がして蛇口をひねって顔を濡らした。  あの香りは、これまでも街や店の片隅でふいに鼻を掠めたことがある。  そのたびに振り返り、辺りを見渡しては、見つけられない面影に落胆してきた。  彼の手のひらの温もりも、頭に触れた一瞬の感触も、匂いも、葵留を思い出させる。  ただの偶然なのか、それとも何かの必然なのか。  笑った顔も、この香りも。  そしてあの声までもが、葵留を思い出させる——どこか甘くて、優しい声。 「……何を考えてるんだ、俺」  さっきの人の声は少しハスキーだっただろ。雰囲気が似てるだけだ。  あり得ないことを想像している自分が馬鹿みたいで、思わず苦笑した。  深く息を吐いて呼吸を整え、鏡を見る。  水滴に紛れて、泣きそうな顔がそこに映っていた。  ——大丈夫、大丈夫。大丈夫なふりをしなきゃ。  手と顔を拭き、個室へ戻る途中、耳に宴の賑わいが戻ってくる。  笑い声、グラスのぶつかる音、下前の威勢のいい声。  さっきまでと何ひとつ変わらない空間の中で、自分だけが取り残されたような気がした。  座敷に戻ると、仙太郎がすかさず声をかけてきた。 「長かったな、大丈夫か?」 「うん。もう平気になったから……」  笑ってごまかしながら席についた千春の心は、まだ少し震えていた。  ぽっかりと空いた穴は、何年経っても塞がらない。  そこから吹き込む冷たい風が、心の奥を静かに吹き抜けていく。  失った温もりは、もう二度と戻らないと分かっている。  それでも、香り一つにさえ浅ましく縋ろうとする自分が、情けなかった。  ——あ……また、泣きたくなる。   涙をこぼしたら過去から戻れなくなってしまう。  心の中で言い聞かせながら、千春は黙ったままグラスに手を伸ばした。  ほんの少しだけ、葵留を思い出させる惠護の姿を目の端に捉えながら。

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