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第10話
キッチンと八畳の洋間。狭いけれど、それぞれ独立した風呂とトイレもある。
初めての一人暮らしには十分過ぎる部屋だ。
千春が特に気に入っているのは、二階から見渡す景色。
川沿いの桜並木は、春になれば満開に咲いて最高の癒しをくれる。
物件を見に来たときは蕾だったけれど、契約書にサインすることに迷いはなかった。
そしてもう一つここに決めたのは、帰り道にスーパーがあることだった。
自炊は好きだ。だから、夜十一時まで営業してくれるスーパーは本当にありがたい。
駅から遠くても、学校帰りに買い物できるだけでここは充分すぎる。
鶏もも肉、めっちゃお得だったな。久しぶりに唐揚げでも作ろうか。
いつもは十九時以降に貼られる、割引シールの肉しか買えないけれど、チラシで特価の、普段は手が出せないもも肉がゲットできた。
しがない学生生活は、ほんと楽じゃない。
大学のすぐ近くにあるレトロな喫茶店、ラポールのバイト帰り、千春は特売の戦利品を手に、道すがら献立を考え歩いていた。
メインは揚げ物だからちょっとさっぱり系も欲しい。
きゅうりと春雨の中華サラダを作って、あとはなめこの味噌汁でいっか、と出来上がりを想像したら、腹の虫も賛成と鳴った。
道沿いに流れる川をたどるように歩くと、ほどなくして川の反対側へと渡れる橋が姿を現す。この橋が見えると千春のアパートはもうすぐだ。
ギリギリ二級河川に入るであろう川面は茜色に染まり、千春は光の欠片に見惚れながら川沿いをなぞり歩いた。
少し冷たい風は初冬を仄めかし、パーカーだけの装いだと自然と肩が竦んでしまう。
千春はエコバックの紐を掛け直し、さっきより歩幅の広い一歩を踏み出す。すると、今朝干したシャツがベランダではためくのが見えた。
ハンガーごと揺れているのが気になり、駆け出そうと二歩目を出したタイミングで、誰かに名前を呼ばれた気がした。
──ちは……。
突然、耳に飛び込んできたその声に、千春の足が止まった。
いつもの何でもない景色に差し込まれた声に、思わず振り返る。
けれどそこには、小学生が数名、段ボールをソリ代わりに土手を滑っているだけで、他には誰もいない。
眩しいくらいのオレンジが反射し、千春は目を眇めて周りを見渡した。
懐かしい呼び名に聞こえたのは自分の願望だ……。
千春は自分にそう言い聞かせると、胸の痛みに気付いていないフリをして自宅へと向き直った。
その瞬間、再び名前を呼ばれた。
今度は、こっち、こっちと存在を知らせてくる言葉と一緒に。
オレンジ色の景色を見渡すと、明らかに自分へと手を振ってくる人影が目に留まった。
蜂蜜のような空を背に千春へと手を振ってくる人物は、川の反対側から橋を渡り、こちらへ来ようとしている。
誰……だろ、あの男の人。
かけて来る姿は、光源のせいでよく見えない。
千春は徐々に近づいて来る男性に目を凝らした。
「鵜木……千春君だよね。家こっちなの?」
距離が縮まってくると、見覚えのある顔に、あっと声を発したものの、名前までは出てこず、「シャツのシミの人っ」と叫んでいた。
「やだなぁ。シャツのシミって、覚え方。上条惠護 だよ、覚えてる? でもあのときは助かったよ、お陰で洗濯したらシミは跡形も無くなってた。ほんと、ありがとな」
笑い顔から微笑みに移行する姿に、千春は目を細めて見つめていた。
輪郭は光に縁取られたようにハイライトが生まれ、躯体全部が夕陽に包まれて輝いている。
ふわりとした笑顔は少しだけ影を帯びて美しく、とても柔らかな表情に見えた。
やっぱり葵留に似ているなと思った瞬間、胸にチクン、と痛みが走った。
「おーい、聞いてる?」
目の前を手のひらが優美に流れると我に返り、「聞いてます」と慌てて返事をした。
「で、でも、俺ってよく分かりましたね。一度会っただけなのに」
「俺って記憶力いいんだ。川の向こうから、見たことあるシルエットだなぁって眺めてたら思い出したんだ、染み抜きの鵜木君だって。君の家はこの辺なんだな」
テラコッタカラーのトレーナーに、ブラックのジャケットを羽織り、スキニーパンツでサラサラと前髪を風になびかせる姿は、さながらモデルようでため息が出る。
たおやかに微笑む表情は記憶の中の葵留と重なり、発する声も少し似ているなと思ってしまった。
バカだな、俺は。もう、本当に重症だ……。
意識を過去に奪われていると、「聞いてる?」と、声をかけられた。
「あ、い、家ですよね。はい、近くですっ」
意識を異空間に飛ばしていると、自分でもわかるほど顔を高揚させて大きな音量を発してしまった。
「はは、元気いいな。今から帰るとこ? 買い物してるとこ見ると独り暮らし?」
薬味用の青ネギがエコバックから顔を出しているのを指差された。
「は、はい。そうです。すぐそこのアパートで。か、上条先輩の家もこの辺ですか?」
今度は普通に答えられた、ちょっとつっかえてしまったけれど。
「俺は大学の近所。ダチの家がそこの駅の近くにあってさ、そこからの帰り。この川沿いから見る夕陽がきれいって聞いたから、帰る前に足を伸ばしてみたんだ」
「そうなんですか。でも、それ、正解かも。今日は特に夕日がきれいだから。俺も景色に一目惚れして、駅から遠いけど住むならここだって──あ、すいません、一人でペラペラと……」
同じことを感じてくれたことが嬉しくて、つい、テンションが上がってしまった。
でも、本当に見て欲しいのは春だ。
そこも付け加えて言いたかったけれど、馴れ馴れしすぎるかも。
「一目惚れか、わかるな。この木って桜だろ、春になれば圧巻だろうな」
春になったらまた来るかなと、秋の空に伸びる枝葉を見上げている。
ぜひ来てください──と言いたかったけれど、自重するように口を手で覆ったまま、頷くだけに留めた。
「鵜木君って料理出来るんだな。今晩は何作んの」
前髪をかきあげながら、エコバックを興味深く見ている惠護に、「唐揚げです」と答えた。
「唐揚げかぁ。いいね、俺も大好き」
「あ、じゃあ一緒に食べます、か──」
しまった。つい、言ってしまった。
さっき馴れ馴れしいと思ったばかりなのに、名前しか知らない先輩をいきなり家に招待しようとしている。
咄嗟に「すいません。俺、何言って──」と、取り消そうとしたが──
「行くっ!」と、千春の焦る気持ちを吹き飛ばすように、惠護が食い気味に叫んできた。
「行きたい、行くよ。唐揚げ食べたい」
あまりにも迷いのない返事に、千春は驚きで言葉を失った。
それでもようやく絞り出した声で、「いいんですか? 俺の飯で……」と言ったけれど、その声は上ずっていたと思う。
ほぼ初対面の相手に手料理をどうぞ、なんて自分はとんでもなく失礼なやつじゃないのか?
困惑している千春をよそに、「荷物持とうか」とにこやかに手を差し出してくれた。
「だ、大丈夫です、軽いですから。でも上条先輩、予定とかはなかったんですか」
「もう帰るとこだったし、今日はもう予定ないよ。鵜木君こそ家に行ってもいいの?」
「平気ですよ。ただ、俺の飯でいいのかなって……」
肩を並べて歩く整った横顔に尋ねると、笑顔が返ってきた。
「本当はシミ取りのお礼を俺の方がしなくっちゃいけないのにな。でも、この偶然を、じゃあまた、って終わらせるのがもったいないなぁって」
「どういう、ことですか?」
言葉の意味が分からず、千春は首を傾げた。
「また鵜木君と話したいなって思ってた、ってことかな」
惠護がなぜそう思ったのか考え込んでいると、「睫毛、長いね」と、至近距離で顔を覗き込まれた。
夕焼けのせいか、惠護の瞳は黒と茶色が縞模様のように見え、小さな空に吸い込まれそうになる。
「か、上条先輩、ち、近いです」
「あ、ごめんごめん。けど鵜木君って何だかいい匂いするからさ。香水でもつけてる?」
「い、いえ、何も付けてませんよ。臭いですか?」
千春は自分の腕を鼻に当て、確かめるように体の匂いを嗅いでみた。
「臭くないよ。いい匂いって言ったろ? なあ、それより上条先輩って呼ぶの長くない? 惠護って呼んでよ」
「えっ。そ、それは馴れ馴れしすぎます。ダメですよ」
意表をつかれたことを言われて耳が熱くなる。
夕暮れの風が冷たくてありがたい。
「じゃ、〝惠護先輩〟にしよう。これならいいだろ?」
一歩前に足を踏み出した惠護がクルッと振り返って言った。
栗色の髪が輝きを放ち、柔らかく風になびいている。
何でもない仕草なのに、どうしてこんなに視線を奪われるのだろう。
考えていると、返事を催促するかのようにジッと見つめられていた。
名前を呼ばないことには、この優しい視線に囚われたままになる。
千春が逡巡していると、いつの間にか太陽は月へと空を譲り、惠護の輪郭が淡く闇に溶け出していた。
何となく胸がざわつき、「け、惠護、先輩、家こっちです」と、たどたどしく言った。
シャツがはためくベランダを指差しながら、「部屋、散らかってますけど」と、小さな声を付け足して。
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