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第4話

 その日、昼食を食べ終えて執務室へ戻ると、公爵は机に向かい、手にはペンを持ったまま、うつらうつらと舟をこいでいた。  補助机には手つかずの食事が置かれたままだ。俺には食堂で食べてくるように言い、自分は食べながら仕事をするといって食事をここに運んでもらっていた。  働き詰めで、最近ずっと疲れが顔に出ていた。  あんなに強かった威圧感が、今はほとんど感じられない。  これは無理してるなあ。  俺が正式に公爵家で働きはじめて、一か月が過ぎていた。  覚えなくてはいけないことが膨大で大変なひと月だったが、公爵がフォローしてくれたおかげで、かなりスムーズに仕事をこなせるようになった。  しかし俺に振るべき仕事を公爵がいまだに一人で抱え込んでいる。朝は俺より先に仕事をはじめているし、夜もいったい何時までここにいるのか。明らかにオーバーワークだ。  俺以外の執事や家令を雇う気配もない。  どうしたものかと思いながら机越しにそっと近づくと、彼がハッとしたように目を開けた。 「ああ……ユーイン…。もうこんな時刻か」  彼は大きく息をつき、書類にペンを走らせようとする。俺は手を伸ばし、その手を掴んだ。  公爵が顔を上げる。やっぱり顔色が悪い。今日は仕事を切り上げて休んだほうがいい。 「クライド様。仕事を再開する前に、食事をしてください」 「ああ。キリがついたら食べる」 「いいえ。昨日もそう言って、結局夜まで召し上がらなかったでしょう。今すぐ食べるのです」  ずいっと顔を近づけて、強気で言い切った。俺の気迫に押されたようで、公爵は俺の目を見つめて少し黙り、それから右手に視線を移した。  公爵の手を掴んだままだった。俺は気づいてすぐ手を離した。 「失礼しました」 「いや」  彼はペンを置き、素直に食事をとりはじめた。  俺は自分の席に戻り、仕事を再開する。補佐のマシューが郵便物を届けに来たので、それを受けとり、湯とタオルを持ってくるよう頼んだ。  現状の公爵を見ていると、前世で、両親に死なれた直後の自分の姿と重なる。  俺が相続したのは小さな町工場。赤字ギリギリの自転車操業で、廃業したほうが楽なのは明らかだったが、従業員が五人いた。いずれも親と同世代、転職も厳しいだろう彼らを路頭に迷わせるわけにはいかないと思ったから、必死に経営を続けた。  当時まだ二十歳、周囲の友人は大学生活を謳歌しているやつばかりで、工場の具体的な相談なんてできる相手はひとりもいなかった。相談できる大人も知らない。もっとも信頼できて相談できる父はいない。こんなことならもっと父の話を聞いておけばよかったと何度思ったか。  慣れない仕事をいきなり抱え、従業員を養うプレッシャーを抱え、とにかく俺が頑張らなければと視野狭窄に陥っていた。  今の公爵と同じように、寝る間も惜しんで根を詰め、精神的にも参っていた。そんなとき、従業員のおっさんの一人が「もし工場をたたんでも、俺たちならどうにでもなるから。気楽にやっとくれ。困ってるなら相談してくれ」と俺の肩を叩いてくれた。  その言葉で、俺は精神的にずいぶん楽になった。  公爵家は事業規模も従業員数もとほうもない。屋敷や事業で雇っている者だけでなく領民もいる。公爵の肩にのしかかるプレッシャーは相当だろう。俺の例とは比べものにならないし一緒には語れない。だが今の公爵には、あのおっさんのような声かけがきっと必要だ。  その役を担うのは新参者の俺じゃなく、公爵が信頼を寄せている人物がいいのだろうが、人間不信の彼に、そんな相手は現時点ではいない。  ――しかたない。言うか。  貴族は嫌いだし公爵もちょっと苦手に思っていた。だが悪い男じゃないということは日々の関わりや小説から知るようになった。以前の俺のように潰れそうになっている彼の姿を見て、助けたいと思う程度には情が湧いている。 「クライド様。お話があります」  食事を終えてすぐに書類に向かおうとする彼に、俺は改まった調子で声をかけた。 「あちらでよろしいでしょうか」  立ちあがり、応接セットへ促した。  俺の様子に、普段と違うものを察したようで、公爵は素直に従ってソファに移動した。  俺はすわる彼の前に跪き、まっすぐに彼を見つめた。 「クライド様。失礼ながら、いま、周りが見えていますか」  ブルーグレーの瞳が、意表を突かれたように揺れた。 「クライド様は前公爵様が亡くなられてから、がむしゃらに走ってこられたと思います。とくにこのひと月は家令も執事も去り、相談できる相手もいない中、息をつく余裕もなく全力疾走されていた。でも、そろそろいったん立ちどまって、周りを見てみましょう」  まだ雇われて日の浅い使用人が、主人に向かってこんな物言いをするのは稀だろう。公爵は黙っているのでどう感じているかわからないが、反感を抱かれぬよう、表情と口調は抑えめに調節してみる。 「ひと月前の私は役立たずでしたが、お陰様でだいぶ仕事をこなせるようになっております。ご自分の仕事量を見直して、もう少し、私に仕事を振ってみませんか。信用ならないようでしたら、確認していただければいいのです」 「…あなたは役立たずではないし、信用なら、している」 「でしたらよかった」  俺は立ち上がり、ソファの端に置いてあった膝掛を手にした。 「いいですか。そんなに気負わなくていいんです。そんなに真面目に一人で抱え込まずとも、公爵の仕事は如何様にもできます。ですからもっと私を頼ってください」  言いながら、公爵の膝に膝掛をかける。  公爵は何度か瞬きして俺を見つめ、それから頷いた。 「わかった」  そこに、マシューが戻ってきた。俺は湯の入った桶とタオルを受けとり、タオルを濡らして絞ると、公爵に差しだした。 「目の下のクマがひどいです。顔を上げて、これを目の上に乗せてください」 「…ああ」 「私にどの仕事を任せるか、そのままそこでしばらく考えていてください」  受けとったタオルを目元に当てた公爵は、素直に俺の指示に従い、ソファの背もたれに身を預けた。  それを見届けると、俺は自分の机に戻り、仕事を再開した。  まもなく、公爵はそのまま眠ったようだった。その様子を見て、ホッとする。  俺の言葉を受け入れてくれた様子が見られたのも、ちょっと嬉しい気がした。このひと月の俺の仕事ぶりを見て、任せられないと評価したなら「わかった」なんて言わないだろうし。  前世のおっさんも、俺の肩の力が抜けたとき、こんな気分になったかな。  俺は再び静かに近づくと、起こさないように気をつけて、彼をソファに横たわらせてやった。

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