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第5話クライド

   人は自分に利益をもたらす相手に近づきたがる生き物であり、利益がなくなれば離れていく。  だから人を易々と信用するなと幼い頃より父から教育されてきた。他人はもちろん、父も家族も信用するなと言われた。近づく者は公爵家の地位と金を狙っているのだとまず思え。隙を見せたらつけこまれる、と。  その教育の一環で、王都の寄宿学校には、最初、身分を隠して男爵家預かりの庶民として入った。そして半年後、本当の身分と名前を明かした。王の次に、場合によっては王よりも権力を持つアルドリット公爵家の嫡子であると。  周囲の者の態度の変化は、いっそ見事だった。  入学当初は私に見向きもしなかった貴族の子弟たちが、こぞって媚びを売り、仲良くなろうと近づいてきた。話したこともなかったのに急に告白してくる女子が何人も現れた。露骨すぎて、彼らと仲良くしたいとはとても思えなかった。  半年間仲良くしていた身分の低い友人の中には、離れていく者もいた。彼らも私自身ではなく、身分で私を判断していたわけだ。  それまでも、人が身分で態度を変える姿は見てきたし、理解していたつもりだが、あのオセロのような鮮やかな変化は子供心に深く印象付けられた。  そのような教育のお陰もあって、人との間に壁を作る人間となった。  もちろん、話して楽しい相手はいて、学生時代に出会ったローレンス・グリーンカレーなどはその一人だ。だが壁の内側に入れることはない。  この世の誰も、この厚い壁の内側に入ることはないだろう。そう思って生きてきた。  当然、恋などくだらないものは一生縁がないものだと思って生きてきた。  周囲は結婚結婚とうるさいが、政略結婚もするつもりはない。必要ない。  ずっと、そう思っていた。  ユーインと出会うまでは。  彼を公爵家に呼んだきっかけは、弟の発案だ。  ドプソン家の執事がうまく遺産処理をしたらしいから、我が家もやってもらわないかという。  私としては、その噂を丸ごと信じたわけでもないし、弟の思惑のような真似を望んだわけでもない。  ただ、昨年あたりから執事の金遣いが派手になっているという噂を耳にしていた。給金を増やしたわけでもない。父は人を信用するなといいながら、帳簿管理をあの親子に任せきり。  疑惑を抱きつつも多忙で自ら確認する暇がなかったが、この機会に第三者に確認させてもいい。  そんな思惑から弟の話に乗った。  ユーインは黒髪に澄んだ水色の瞳をもつ、知的な印象の美しい青年だった。  彼を見た瞬間、灰色だった世界が鮮やかに色づいた。  彼がこちらへ歩いてくる姿は、割れた海を歩く神のごとく光輝いて見えた。  眩しいのに、目を逸らすことができない。一秒でも長くその姿をこの目に収めておきたい。  息をすることも忘れて、見惚れた。  そしてその後の彼の言動に、さらに衝撃を受けた。  庶民であるはずなのに、貴族である私や弟に、まるで対等であるかのように毅然とした態度をとったのだ。  不正を持ちかける弟を突っぱね、誇りをもって仕事をしていると、臆することなく言い切る彼に、強く心を揺さぶられた。  まるで対等であるか、ではない。おそらく彼の中では、対等なのだ。  彼は、相手によって態度を変えるような人間ではないのだ。  あんな人は初めてだった。  私の分厚く強固な壁が、彼によって崩れたのを感じた。  ああ。この人だ、と思った。  私は彼に会うために今日まで生きてきたのだと、理解した。  そして気づいたときには、彼は私の壁を壊し、内側に入り込んでいた。  その日はその後、熱病にでもかかったように頭がぼうっとし、彼のことしか考えられなかった。自分がどう行動したかも覚えていない。彼を想うと胸が熱くなり、眠れなかった。翌朝までその現象と戦った末、朝食後に再び彼を見たら、症状が悪化した。  話しかけたいのに言葉が出ない。結果、挨拶しかできずに一日が終わった。  それが一週間続き、こちらが依頼するまでもなく彼は不正を見つけ、報告してくれた。  このままでは遺産処理を終えたら彼は帰ってしまう。まだ帰したくない。その想いが勝り、無理を承知で執事になってもらった。  子爵家にいったん戻ったときは、再びここへ戻ってきてくれるか心配だった。子爵には多額の金を提示したので拒まれることはないと思ったが、本人が嫌がるかもしれない。戻ってきてくれたときには嬉しさのあまり、名前呼びを頼んでしまった。勇気を出して茶に誘ったのを断られたのは落胆したが、貴族に媚びない彼らしくていいと、ますます好感を抱いた。  そして翌日、初めて彼に笑顔を向けられたときの衝撃。脳内で分泌される幸福物質が過剰放出しすぎて爆発し、気を失うかと思った。  そこでようやく、自分が彼に恋をしていることを自覚した。  ああ、これが恋なのかと。  初対面時から、この人だと思い、彼に会うために今日まで生きてきたのだと思っていたのに、それが恋だと認識していなかった。  人に興味を持ったことなどこれまでなかった。自分が男を好きになれる人種であることをその時初めて知った。  一緒に仕事をするようになったら、ますます彼に心酔した。彼は私に対し、雇い主として丁寧な態度をとるものの、他の者のように媚びたり恐れたりしない。公爵ではなく、一人の人として接してもらえていると感じる。揺るぎない、芯を持った人物。彼のそんな精神に強く惹かれる。そしてそれに比例するように悩みも増えた。  恋というものはなんと厄介なものなのか。  四六時中彼のことばかり考えてしまう。話したい。また笑顔が見たい。傍にいたい。叶うならほんの少しでいい、指先でいいから、触れたい。  彼にも、私を見てほしい。  二十四歳にして恋愛経験皆無であり、自信がない。どうしたら好感を持ってもらえるだろうか、などと、十代のように悩んでしまう。  かつて自分が他者からされたアプローチを思いだしてみるが、参考にはならない。興味のない相手になにをされたって不快なだけだった。彼らのような真似をして、気持ち悪がられるのは避けたい。現状を保てば、傍にはいられる。  煩悩を消すために、仕事に没頭することにした。  しかしふとした拍子に脳裏で邪念がチラつく。それを消すために猛烈に仕事をこなしていたら、その日、ユーインに仕事をとめられた。  驚いてヒュッと息を呑み、固まった。  ずっと触れたいと思っていた彼の手が、ペンを持つ私の手を握る。私の手よりも少し小さく、指が細く、手のひらは柔らかく温かかった。  感動と興奮でドキドキしすぎて鼻血が出そうだった。  触れていたのはほんの少しの時間だけだったが、私はこれを生涯忘れないだろう。今日はいい夢を見られそうだと思いながら食事を終え、仕事を再開しようとしたら、ソファへ促された。  そこで真剣に話してくれた彼。私の仕事への没頭ぶりを心配してくれていた。  あんなふうに誰かに心配され、声をかけられた経験はかつてなく、驚き、そして彼の優しい心根を純粋に尊敬した。  温かなタオルは、彼の手のひらのように優しく私の心を包み込んだ。  やはり、彼は唯一だった。  こんなに心惹かれる存在がいていいのか。彼に心を持っていかれるこの否応ない力は、まるで引力の法則のように抗いがたい。  仕事に没頭していたのはよこしまな想いを誤魔化すためだった、という事実は墓場まで持っていくことにした。  彼はいつも仕事以外の話をしようとせず、私に無関心なようだったが、見てくれていた。その事実に嬉しさが込み上げる。  もし私が彼にとって嫌な雇い主ならば、あんな言葉かけはしないだろう。温かいタオルを渡してくれたりしないはず。  嫌われてはいない。ならば、もう少し親しくなることは可能かもしれない。  そう思ったら、欲が出てきた。  彼を公爵家に呼ぶ前、一応身辺調査を行っていた。それによると、婚約者はいないようだ。  恋人や好きな相手はいるのだろうか。男でも、恋愛対象になるだろうか。  男でも対象となるなら――彼が欲しい。  いや。  男は恋愛対象じゃなかったとしても、それでも彼が欲しいと思う。ただの雇用関係とは違う関係になりたい。  どうしたら手に入れることができるだろう。  翌日も、朝食をとりながら悶々と考える。  食事は私一人。サイラスは数日前から王都へ行っており、不在だ。 「クライド様。少し気になることがあるのですが」  食べ終える頃、給仕のために控えていたスザンナに声をかけられた。 「なんだ」 「ユーインのことですが、なにか、彼に言いたいことがあるのでしょうか」  図星をさされ、ぎくりとする。 「……なぜ」 「いつも彼を睨んでおいでのようですので」 「睨んでいる?」  そんなつもりはなかったので驚いた。  しかし、いつも見ているのは事実だ。見惚れているだけで、睨んではいないつもりだが。 「そんなつもりはなかったが、そのように見えるか?」 「はい。怖い感じといいますか」  見ると理性が飛びそうになるので、律するために気を引き締めているのだが、まさかそれが睨んでいるように見えるのか。ユーインにもそう思われていたら困る。気をつけねば。 「教えてくれて助かった。気をつけよう」  話しを終え、食事も終えて席を立とうとし、しかしふと、恋愛について他者の話を参考に聞いてみたくなった。気まぐれにスザンナに尋ねてみることにする。 「ところでスザンナ。あなたがモーリスと結婚した理由を教えてくれないか」 「なんですか急に」  いつも冷静な彼女が珍しく狼狽えた。 「周囲がやたらと私に結婚を迫るのでな。参考に聞いてみたくなった」  スザンナの夫モーリスは我が家の御者。二人は私が産まれたときにはすでに結婚していた。  彼女は表情を取り繕い、咳払いを一つしてから答えた。 「昔のことで、もう覚えておりませんよ」 「そう言うな。あなたたち夫婦に興味があるのではなく、一般的な意見を聞きたいだけだ。正直に教えてくれ」 「…真面目で優しい人だと思ったので」 「本音は?」 「顔です」 「なるほど」 「もちろん夫の顔が十人並みなのは承知しておりますけども、ああいう熊っぽい系統が好ましく感じるといいますか」 「ああ、わかる。モーリスはいい男だ」 「もっと正直に言いますと、仕事中たまたま目撃した半裸、とくに胸筋の厚みに心奪われまして」 「そこまで正直にならなくていい。それで、つきあいはじめたきっかけは?」 「なんだったでしょうか…普通に、デートに誘ったんだったと思います」 「スザンナから誘ったのか」 「ええ。向こうがこちらに気があるのはわかってましたしね」  なるほど。たしかに「好きだ」などと言葉にしなくても、目つきや態度で気持ちは相手に伝わる。  現状、ユーインが私に気がある可能性は限りなく低い。主人として気にかけてくれてはいるが、恋愛対象としてみられてはいないだろう。  どうしたら意識してもらえるだろうか。  私の武器は権力と財力。しかしユーインはそんなものに釣られるような男ではないだろう。  財力や権力以外の、私自身の人間としての魅力…。  ……。  なにがある…? 「…スザンナ。やはり男は顔だろうか」 「顔ですね。胸筋も重要です」 「胸筋か…」  容姿は大事。しかしスザンナは熊のようなモーリスに惹かれるし私は知的で端正なユーインに惹かれる。人それぞれ好みがある。性格もそうだ。ユーインの好みがわかれば、できうる限り好みに近づける努力はできるが。  それから彼の関心を引ける話題。彼の趣味や嗜好。まずはそれらを知ることからはじめるべきだろう。男でも恋愛対象になるのかも、早急に知りたい。しかし彼はなかなかプライベートな雑談をしてくれないし、仕事が終わるとさっさと執務室から出てしまう。  今度、領地視察などに連れだしてみるか。執務室を出れば、仕事以外の話もしやすい。  そんなことを考えながら仕事に向かった。

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