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第7話

 駅から一時間ほど馬車を走らせ、コフィ伯爵邸へ到着した。  到着するなり商談に入る。  コフィ伯爵領地には、まだ鉄道が敷かれていない。コフィ伯爵領への鉄道敷設をすることに合意を得られたのが昨年。それからは書簡でのやり取りで話を進め、今回、契約を取り交わすために赴いたのである。  応接室にて、公爵と伯爵が経営や利益配分についての確認をしていく姿を、俺は後ろに控えて眺める。  小説でのこの場面は覚えている。  メイドが運んできた茶を零し、公爵が目を離したすきに、伯爵が書類をすり替えるのだ。伯爵に有利な数字に書き換えられたものに。トラブルが生じてから発覚し、抗議しても伯爵はシラを切り通し、後始末に大変な思いをする。  物語的には、これによって公爵の人間不信が増し、心が荒ぶことで、のちに出会う令嬢に気持ちが傾きやすくなる作用があるわけだが、現実ではそんなものは不要だ。  後始末で大変な思いをするのはきっと俺も一緒のはず。絶対嫌だ。  ということで、締結するまで誰も部屋に入れないよう、護衛に部屋の前で待機してもらった。俺も、伯爵がおかしな真似をしないよう、ずっと気を配っていた。そのため伯爵は細工することもできず、契約はつつがなく締結された。  よしよし。うまくいった。  今夜は伯爵邸に一泊する予定である。  このあと公爵は伯爵と懇談し、伯爵一家と共に夕食をとる。俺はそのあいだすることもないので、一足先に休ませてもらうことにした。  先に食事を済ませ、あてがわれた部屋に入ると、背広を脱ぎ、ベッドに横たわった。張りつめていた気が緩む。  しばらくうとうとし、扉をノックする音で目が覚めた。返事をしながら起きあがると、扉が開き、公爵が顔を覗かせた。 「具合はどうだ」  戸口の方へ向かおうとすると、公爵が手を上げて制止し、中へ入ってくる。 「休んでいてくれ。痛みは?」 「それほどでもないです。大丈夫ですよ」  そう答えたが、本当は痛い。痛み止めがもう切れたか。  腕へ視線を向けると、シャツに血が滲んでいた。公爵もそれを見て、表情を険しくする。 「手当てをし直したほうがよさそうだ。ちょっと待っていろ」  公爵は止める間もなく部屋を出ていき、手当ての道具を持って戻ってきた。誰かを呼んでくるのかと思っていたら、公爵一人だ。 「診せてくれ」 「え。まさかクライド様が手当てをしてくださるのですか」 「嫌か」 「嫌ではないですが」  お貴族様が、使用人の怪我の手当てを? 「多少の心得はある。任せてくれ」  公爵はやる気に満ちている様子だ。戸惑いつつもベッドに腰かけ、シャツを脱いだ。  傷に触らないようゆっくりと上半身裸になり、ふと公爵を見ると、彼は俺の胸元の辺りを見つめていた。俺の視線に気づくと、ハッとしたように後ろを向く。それから室内にあった椅子を俺の前に持ってきて、俯いたまま腰かけた。 「触れるぞ……痛かったら言ってくれ」  公爵はまるで壊れ物に触れるように丁寧な手つきで包帯を解き、傷口を確認すると、軟膏を塗ったガーゼを当て、新しい包帯を巻いてくれた。  険しい表情を崩さず俺の顔色を窺う。 「今夜、熱が出るかもしれない。飲み水の用意を頼んでおく。それから痛み止めの薬も貰っておこう」  頼んでおく、貰っておこう、というからには、公爵自ら頼むつもりなのだろう。  いくら公爵をかばって撃たれたとはいえ、甲斐甲斐しすぎないか。  公爵と同等の貴族ならばその態度もわかるが、俺はただの使用人だ。使用人の世話は他の使用人に任せるものだ。  使用人に親切な貴族もなかにはいるだろう。だが目の前にいるのは人間不信の公爵。  悪い男じゃないことは知っていたけれども、さすがに度を越していて驚く。 「あの、ご覧になられたようにそこまでひどい怪我でもありませんし、普通に歩けますし、自分で貰いに行けますので」 「しかし、こういうものは甘く見て無理をすると――待て、顔が赤い。熱があるんじゃないか?」  公爵が手を伸ばし、俺の額に触れた。  大きな掌。額だけでなく目元まで覆われてしまう。 「少し熱いが…」  たしかに、普段より体温が高めな気もする。  汽車旅も楽しかったけれど疲れたし、伯爵との交渉中も緊張が続いた。撃たれたことで心身ともにダメージを受けた。  きっと疲れたんだな。ちょっと頭がぼんやりする。俺より少し体温の低い彼の手のひらが心地いい。  いつまで測っているのかなと思いはじめた頃、手が離れていった。  なんとなくぼうっと公爵の顔を見つめる。すると彼のブルーグレーの瞳が動揺したように揺れ泳いだ。 「……シャツを、着てくれ――ああ、手伝いが必要か」 「いえ、大丈夫です」  先ほど脱いだシャツを着ようと手にとったら、止められた。 「待て。それを着るのか」  袖が血で汚れている。だが着替えはもうないのだ。 「ええ。もう着替えがないので。上に背広を着れば見えませんし」 「待ってろ」  公爵は再び部屋を出て、シャツを手にして戻ってきた。 「これを着るといい」  渡されたのは高級な仕立てのもので、ひとまわり大きい。 「これはクライド様のでは?」  さすがにこれを借りるのは躊躇する。返そうとしたら押し戻された。公爵は元の椅子にすわり、腕を組んで受け取りを拒否する。 「いいから着てくれ。家に戻ったら新品を買ってやる。あ、これは何度か着たが、ちゃんと洗濯した綺麗なものだぞ」 「……ありがとうございます。お借りします」  あまり遠慮しすぎるのも失礼かと思い、袖を通した。  公爵は肩幅が広いし胸板も厚い。腕も長い。予想通りダブついたので、袖を折り返す。  そんな俺を、なぜかほのかに耳を赤らめながら見つめる公爵に、俺はフフッと笑いかけた。 「クライド様は、お優しいですね」  疲れて頭がぼんやりしているせいだろうか。思ったことがポロリと口から出た。  とたん、公爵が驚いた様子で息をとめ、まじまじと俺を見つめた。それから、嘘をつけと言わんばかりに眉間を寄せて睨んでくる。 「……そんなことを言われたのは、初めてだ」  そうだろうなあ。  俺は笑みを深めた。 「お優しいですよ。今は特にそうですけど、普段も。私は使用人なのに、そうじゃない接し方をしてくださる」  公爵が頬を赤くし、なんとも言えない複雑な顔をした。そして手元へ視線を落とし、躊躇うように口を開く。 「……あなたが、そうだからだ。私を公爵と思っていないような接し方をする」 「え、そんなつもりは。生意気な使用人ですみません」 「そうじゃない」  公爵が顔を上げる。真剣な眼差しがまっすぐに見つめてきた。 「なんと言ったらいいか……。私とあなたは雇用主と被雇用者だ。私は貴族で、あなたはそうじゃない。どんな理想を掲げようとも現実として、対等ではない。私のほうが立場が強い。だがあなたはそれを承知しながらも、私と対等に関わろうとしている、ような気がする。だから私も公爵ではなく一人の人間として、あなたと関わりたいと思っている」  俺は驚いて、目をぱちくりさせてしまった。  庶民と貴族の間を隔てる溝は海より深い。それなのに、こんなことを言う貴族がいまだかつていただろうか。  そもそも小説の公爵は、出会ってひと月程度の庶民にこんなことを言う男じゃなかった。  しかしこれは、まるで俺に心を開いているような口ぶりではないか。小説では、公爵が心を開くのはヒロインだけのはずだが。  小説の公爵と現実の公爵は、じつはキャラが違うのか?  いや、だが、これまで見てきた感じだと一緒だよなあ。  困惑で言葉を失っていると、公爵の手が伸びてきて、俺の手に触れた。と、その刹那、ノックもなくいきなり扉が開いた。 「クライド様、ここにいらっしゃったのですね」  伯爵家の令嬢だった。 「少しお話しがしたくてお部屋を伺ったのですがいらっしゃらなかったから、探しましたわ」  俺は反射的に、公爵に触れられていた手を引っ込めた。公爵は無言のまま冷ややかな視線を彼女に向ける。  令嬢は、胸を強調したドレスに、媚びた笑顔。  あー。そういうことか。公爵、狙われてるのか。  恋愛に関心がなく、そちら方面に鈍感な俺でもさすがにわかった。  金も権力もある独身のイケメン公爵だから、そりゃあ狙われる。小説でも度々、令嬢たちに熱烈に迫られるシーンがあった。 「もうよろしいかしら」 「なにがですか」 「え、だから、クライド様のお部屋へ戻りませんこと? 従者向けのこの部屋ではゆっくりお話しできませんもの」 「夕餉の席でも話しましたが、私の執事は負傷しています。しばらく彼のそばについていようと思っています」  公爵は蝋人形のような無表情。この令嬢にまったく関心がないことが、その声音と表情からありありと伝わってくる。貴族の礼儀として、俺をダシにして失礼ないように断っているのは誰の目にも明らかなのだが、令嬢は簡単に引き下がらない。 「執事を大事にしてらっしゃるのですね。少し驚きましたわ。手をとって、まるでプロポーズでもしていたみたいでしたもの」  令嬢がクスクスと笑いながら言う。  そんなわけないと否定が返ってくる前提の発言だっただろう。しかし公爵は一瞬黙り、「なるほど」と小さく呟いたと思うと、立ちあがった。そして不穏な圧を漂わせながら真顔で告げる。 「その通りです。今まさにプロポーズをしていたところです、邪魔をしないでいただけますか」 「え? は?」  令嬢が驚く。俺もギョッとした。  公爵、なに言ってるんだ。 「私と彼は恋人同士です。私は男にしか興味を持てない質なので悪しからず。良い夜を」  彼は令嬢を締め出し、扉を閉めた。  俺はびっくりしてその背中を見つめてしまった。  俺と公爵が恋人? プロポーズしようとしていたところ?  俺が休んでいたあいだ、よほどしつこく言い寄られたのだろうか。  令嬢を断るために言ったのだろうけれど。だが、それにしても。  椅子に戻ってきた公爵に、俺は眉を顰めて言った。 「なにを勝手なことをおっしゃっているんです」  明日、令嬢とどんな顔で会ったらいいんだよ。 「すまない。口が滑った」 「あれでは妙な噂が立つかもしれませんよ」 「それはかまわない」  公爵はこともなげに言い、少し考えるように壁のほうへ視線を向けた。それから顎に手をやり、おもむろに口を開く。 「あの手の令嬢にはうんざりしていて、ついあのように言ってしまったが……いい手かもしれない」 「なにがです? 男の趣味があるってことですか?」 「ああ」  公爵が俺に目を戻した。ズモモモモ。ラスボス級の威圧感。 「ユーイン、頼みがある」  ……。嫌な予感。 「……はい」 「私の恋人になってくれないか」  ……。  真顔で頼まれ、俺は固まった。  俺の強張った顔を見て、公爵は慌てて訂正する。 「あ、違う。ふりでいいんだ。恋人のふりをしてくれないか」 「……。それは、いまだけの話ですか」 「いや。噂が広まるまで、しばらくのあいだ」 「なぜ私…。私じゃなくとも…」 「恋人はいないと言っていただろう。誤解されて困る相手はいないんじゃないか」  それはそうだが…。 「私に男の恋人がいると周知されれば、少なくとも無意味な縁談の申し込みは減るだろう。あなたの仕事も楽になるかもしれない」  縁談の申し込みが届いたら、すべて俺が代筆し、断りの返事を送っている。それが減るといわれても、そこまでメリットを感じられない。もっと大変な仕事が増えるだけのように思えるんだが。 「……。すみませんが、どう考えても執事の仕事の範囲外です」 「わかっている。特別手当を出す」 「いかほど」 「言い値でいい」  マジか。  いくら提示してもいいのか?  いや、でもなあ。  いくら金を積まれても、令嬢たちの公爵争奪戦に巻き込まれるのは、ちょっと嫌だぞ。嫌がらせとかされそうだ。   困惑顔で黙っていると、上目遣いに窺われた。 「……駄目か?」  いつも偉そうに威圧してくる男の、子犬のような上目遣い。それは反則だろう。  はあ、と俺はため息をついた。 「しばらくということですが、期間はどれほど」 「周知されるまで。ひとまず三ヶ月契約としようか」 「本当にいいんですか私で。公爵家の醜聞になりますでしょう。クライド様の相手なら、もっとほかに…やはり、無難に綺麗な女性のほうが」 「望みがないと知らしめる必要があるんだ。男のほうがいい。私はあなたがいい」  妙な熱意に押される格好で、俺は渋々頷いた。 「……。わかりました」  なんだかおかしなことになったな。  でも、そんなに長い期間にはならないだろう。いずれ公爵は王都で出会った令嬢と恋に落ちるのだし。臨時収入もありがたい。  微熱と疲労で判断力が鈍っていたこともあり、俺は深く考えず請け負ってしまった。

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