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第10話
招待客のほとんどは日暮れと共に帰ったが、遠方から来た親族は公爵邸に宿泊していくことになっていた。
小説ではここでちょっとした事件が起きる。
宿泊した令嬢が公爵に薬入りの酒を盛り、一夜を共にするのだ。
令嬢は翌朝、公爵に手籠めにされたと親に泣きつく。怪しい薬を盛られたと公爵は主張するが、親は責任をとって結婚しろと迫ってくる。
令嬢の独断ではなく、娘を公爵家に嫁がせたい親の策略だった。
親は公爵家の遠縁で、鉄道事業の一端を任されているが、利益があまりない過疎地を担当していて不満を持っていた。娘を利用して、もっと利権を得たいという魂胆だったと思う。
謀られたとはいえ関係を持ってしまったことは事実なので、公爵は苦戦する。
まあ、苦戦するけど結局金で解決し、令嬢との結婚は回避できる。その後その親戚とは仲たがいするが、命に関わることではないので放置でいいと思っていた。俺は宿泊客の対応で忙しいし、自力でどうにかしてくれと。
だけど……介入しておくかな……。
公爵のためというより、自分の精神衛生上、そのほうがいい気がしてきた。
今回は、コフィ伯爵の鉄道敷設権やサイラスとの仲互いエピソードと違い、俺への被害はない。それでも放置するのはなんだかモヤモヤする。
公爵が、好きでもない女性に襲われるって……なんか、嫌だ。
夕食後、俺は私室へ戻る公爵に声をかけた。
「クライド様。今夜のことでお話があるのですが、よろしいですか」
「どうした」
廊下を歩きながら続ける。
「今夜は、クライド様のお部屋に私も寝かせてもらってもよろしいでしょうか」
「……」
公爵の足が止まった。俺を見下ろすその目が、驚きで見開かれている。
「…どう、いう…?」
「本日は親戚の皆様が宿泊されるでしょう。私たちの関係をまだ信じていない方もいらっしゃるでしょうし、クライド様の今夜の動向も注目されているはずです。私たちがいつも一緒の部屋で夜を過ごすと思ってもらえるといいかと思いまして」
俺が公爵の私室に一晩中いれば、誰も手出しできないはずと思っての作戦だ。
公爵が喉を鳴らし、ぎこちなく目を逸らした。
「…たしかに……信憑性が増すな」
「では、寝る支度を終えた頃に伺います」
俺は公爵に一礼し、仕事に戻った。
それから手早く夕食をとり、使用人たちと今夜から明朝にかけての業務の最終確認をし、寝る支度を済ませると、寝間着の上に上着を羽織り、自分の掛布を持参して公爵の私室へ行った。
「失礼します」
入室すると、公爵は浴室から出たところだった。
ゆったりした寝間着を着て、立ったまま濡れた髪を拭いている。昼間の彼は常に整った服装で、髪一本乱さない。見慣れない姿に、思わずドキッとしてしまった。男の俺が見ても色気を感じる。
そういえば一度だけ、胸元を開けていたことがあったか。あのときは乱れた格好でどうしたんだろうと思った程度で、色気云々なんて思わなかった。
それなのに今は…。濡れた髪や表情が違うせいか。公爵の部屋だからか。昼間の接触の影響か。
ふいに左手にキスされたことが頭をよぎり、動揺してしまう。
「え…と、私はこの入口近くをお借りしようと思います。クライド様はどうぞお気になさらずお過ごしください」
動揺をごまかすように早口で告げ、掛布を広げる。そのまま床にすわろうとしたら、公爵に止められた。
「待て、そんなところで寝る気か」
「ええ」
「いや、そんなわけにはいかないだろう。いずれにしろ寝るには早い。少しつきあってくれ」
ソファ前にあるテーブルには酒瓶とグラスが二つ置かれていた。そちらへ促され、ソファにすわる。
「いつもと雰囲気が違うな」
公爵が俺をチラリと見て、呟くように言う。そういえば俺も昼間と違うかもな。
「髪を整えていないせいでしょうか。失礼ながら寝間着ですし」
日中は整髪料で整え、額を出しているのだが、いまは洗って乾かした状態で、額も隠れている。
「そのせいか。なんだか新鮮だな」
公爵はなぜか少し照れたように首に手をやり、斜向かいにあるひとり掛けのソファにすわった。彼は酒瓶を手にとり、肩を動かしたあとにグラスに注ぎ、俺に渡してくれた。
酒の管理は家令の仕事。家令不在の現状、俺の仕事であるわけだが、俺はこの酒を知らない。まさか令嬢の持ってきた薬入りじゃないだろうな。
「こちらは、本日のお客様に贈られたものですか」
「いや、私の秘蔵のものだ」
だったら大丈夫か。
酒は嫌いじゃない。そして久しく飲んでいない。
これから令嬢が来るはずだからあまり飲まないほうがいいと思ったが、口当たりのいい上等な酒で、スルスル飲んでしまった。なんだろう、初めて飲んだ酒だ。度数は高そう。
そんな俺を見て、公爵がフッと笑みを零す。
「なんです」
「いや。一緒に酒を飲んでもらえるようになったか、と思ってな。以前は茶すら拒まれたことを思いだしていた」
そういえばそんなこともあった。少しばつが悪く、俺はグラスを傾ける。
「あれは失礼しました。ところでこれ、美味しいですね」
「ああ。ラキルという、南国の酒だ。あまり流通していない」
公爵が酒瓶へ手を伸ばす。ラベルを確認しながら、肩をぎこちなく動かしている。
先ほどグラスに注ぐときも、不自然な動きをしていた。
「肩、どうかしましたか」
「ああ。肩が凝っていて」
眉をしかめ、また肩を動かす。
「今日はずっと気を張っていたからな。身体も硬くなっていたんだろう」
さりげなく漏らされたセリフに、おや、と思う。
日中の公爵は普段通り堂々とした態度で振舞っていた。なんてことないような顔をして。しかし実は気を張っていたんだな。知らなかった。
しかも気を張っていたなんて弱味を見せるような言葉を、他者に漏らすなんて。そんなキャラじゃないのに。
疲れているのもあるだろう。けれど、俺を信頼してくれての発言と思うと、けっこう嬉しい。
「お疲れ様でした。お別れ会という名目でしたが、商談の側面が強いパーティでしたね」
「ああ。うまくいってよかった」
挨拶回りの最中、事業の関係者とのスリリングな交渉場面があったりもした。小説でも出てきたシーンだったし、うまくやると知っていたので、俺はミーハーな気分で傍観していたが、公爵は疲れただろう。
「塗り薬をお持ちしましょうか。それともマッサージでもしましょうか」
「マッサージ?」
「ええ。じつは私、結構得意です」
公爵は少し考えるふうに黙った後、頷いた。グラスをテーブルに置く。
「じゃあ、頼む。どうしたらいい」
「では、ベッドでしましょう」
公爵の動きがカチリと止まる。
「……ベッドで」
「はい。なにか」
「いや」
公爵が首に手をやり、ぎこちなく立ちあがる。俺もグラスを置き、ベッドへ向かった。
「ではうつ伏せで横になってください。私も上に乗らせていただきますね。失礼します」
公爵がベッドに横たわると、俺はその上に跨り、加減を窺いながらマッサージを施していった。
胸板がとても厚いし、腰回りは引き締まっていて、いい身体をしていることは気づいていたが、実際に触れてみると想像以上に筋肉がある。
「クライド様、筋肉すごいですね。いったいいつ鍛えてらっしゃるんです」
「朝、護衛の者と剣の訓練をしているだけだが」
「そういえばそうでしたね」
軽く言っているが、相当しっかりやり込んでいそうだ。
護衛がいるのだから自分が強くなる必要はないのに、ストイックな男だ。俺など、必要に迫られないと鍛錬なんてできない。
剣の訓練をしているなんて、小説にも出てこなかった。
小説に彼のすべての情報が載っているわけではないのだ。こうして関わることで、公爵の知識がまた一つ増えた。
それがなんとなく、嬉しい気がした。
パーティでは堂々としていたが、じつは気を張っていたことも知った。
俺だけに弱音を漏らし、こうして身体に触れさせてくれる。
彼がここまで許しているのは、きっと俺だけだ。
小説の中のこの人は、常に一人で辛い状況に立ち向かい、絶望の中で死んでいった。
俺が関わることで、彼の死を回避できたらいいと思っていた。しかしそれだけでなく、彼の人生がより豊かになるような関わり方ができたらいい、という気持ちがふいに芽生えた。
「……得意、といったな」
はじまって少しして、くぐもった声が尋ねてきた。
「はい。あれ、よくないですか?」
「いや、そうじゃない。得意というからには、こういうことを他の誰かにもしたことがあるということだろう」
「ああ、そうですね。すみません。じつは父にしかしたことがないです。得意は言いすぎでしたね」
肩をすくめて種明かししたら、公爵がホウッと息を吐いた。
「なんだ…そうか…いや、うまいと思う…」
初めは硬く強張っていた身体が、次第に解れてくるのを感じる。それに伴い、公爵の肌が熱を帯びてくる。
マッサージする方も体力を使うので身体が熱くなる。それは、いつものことだ。父にしていたときもそうだったから、はじめは気にしていなかった。だが、次第に気になってきた。やけに自分が熱くなっている気がした。服越しに触れる彼の肩、太腿に触れる彼の腰。久しぶりに感じる人肌に、熱を煽られる。
酒を飲んだせいだろうか。度数の高い酒だとは思った。いや、しかし。それにしても。
――下腹部が、熱いんだが。
ただ体温が上昇しているわけじゃなく、性的な情動を覚える熱だった。
ここへ来てから、この環境に慣れることに必死で、ずっと自慰をしていなかった。酒も飲んでいなかった。そのせいだろうか。
このあと令嬢が持ってくる酒に怪しい薬が入っているはずだが、今飲んだものにすでに入っていたわけじゃないよな。まさか誰かが細工した?
いずれにしろ、この状況でムラムラするのはまずいだろう。
マッサージを続けられず、手を止める。そして思わず、公爵の背に腰を下ろしてしまった。
「う」
公爵が低い声で呻く。
「あ、失礼しました」
慌てて退こうとしたら、足がシーツに引っかかり、ベッドから転がり落ちそうになった。
「うわ」
公爵がとっさに腕を伸ばし、転落を防ぐ。結果、ベッドの上で彼の腕に抱き込まれる格好となった。心臓が転がり落ちそうになる。
「失礼を…」
言いながら彼の顔を見ると、頬は上気し、瞳が潤んでいた。吐く息は荒く、熱っぽい。
え。公爵も興奮しているのか?
「え、あの……もしやクライド様も?」
「なんのことだ」
「いえ…その。妙に身体が熱くて……クライド様も赤いので、さっき飲んだ酒が原因かと思ったのですが」
「…ああ、そうか。そうかもしれないな。少し酔ったかもな」
「秘蔵の酒とのことでしたね。保管場所はここですか。誰かに妙な薬を盛られていた可能性は」
「いや。それはないだろう。薬を盛られていたら、もっとおかしくなる」
え、そうなのか。ていうか公爵、盛られたことがあるのか。
じゃあこれは薬じゃなくて酒のせいか。
薬を盛られてなくてよかった。とはいえ、よくない状況なのは変わらない。
公爵、いつまで俺を抱え込んでいるつもりなんだろう。背にまわされている腕が、やたらと力強いんだが。
ともかく離れようと身じろぎしたら、彼の太腿に腰を押しつける格好になってしまった。そうなってはじめて、自分のそこが硬くなっていることに気づいた。
公爵も気づいたらしく、動きが止まった。
「……」
「……」
向かいあいに抱きあう姿勢で、互いの目が合う。次の瞬間、ぶわっと頭が沸騰する。
「す、すみませんっ!」
叫んで離れようとするが、なぜか強く抱きしめられていて敵わない。
「……その。だいぶ酔っているようだな」
「そう、かも、しれません。お見苦しいものを、いや、ご無礼を、その、あの、すみません」
「いや、謝るのは私だ。うっかり強い酒を飲ませてしまった。そんなつもりじゃなかった」
公爵の大腿が動く。それにより擦れて、俺は息を呑んだ。
「…っ、ぁ…」
喘ぐような声が漏れた。公爵が息を吸い込む。
「っ、悪い」
「あの、離して…」
真っ赤な顔で見あげ、羞恥に耐えて懇願する。すると公爵は俺を凝視し、喉を鳴らした。
「…ユーイン……、もし、私が――」
公爵がなにか言いかけたとき、扉をノックする音が響いた。そして返事をするまもなく扉が開く。
「失礼します。クライド様、いらっしゃいますか」
胸元の開いたセクシーな服を着た令嬢が、ワインを入れた籠を携えて入ってきた。昼間絡んできたのとは異なる令嬢だ。昼間挨拶を交わした、彼女の両親の顔が思いだされる。立場的に小説と一致しており、この娘が薬を盛りに来た令嬢だろう。
彼女はベッドの上にいる俺たちを見て、驚いたように固まった。
こういう場合、すぐに退室すると思うのだが、あまり機転が利かないタイプなのか、それともこの光景がよほどショックだったのか、動かない。
公爵が身を起こし、ベッドから降りる。
「なんだ」
「あ、突然お邪魔して失礼しました。クライド様と二人で過ごしたく思いまして…」
「見てわからないか。私は恋人との夜を楽しもうとしていたところだ。無粋な真似をしないでくれ」
「し、失礼しました」
ここまではっきり言われて、令嬢はようやく部屋から出ていった。
はあ。なんてタイミングだよ。
でもお陰で少し酔いが冷めて、身体の状態も元に戻った。令嬢のハニトラもあっさり回避できた。
公爵は令嬢を見送ると、深くため息をつき、髪をかき上げた。それからベッドにいる俺を振り返り、一瞥すると、また目を逸らす。
「…私も、酔いを醒ましたほうがよさそうだ。もう一度、湯を浴びてくる」
そう言って浴室へ向かった。酔っているならそのまま寝てしまえばいいと思うんだが、どうしてわざわざ醒ますんだろう。
もしかして、酔いを醒ます云々は俺への気遣いで、マッサージがいまいちだったかな。湯で温めたほうがいいと思ったかな。
俺はベッドから降り、床に置いたままだった掛布を取り上げ、ソファにすわって彼を待った。
さほど待つことなく、公爵は出てきた。また髪まで濡れている。今度は寝間着ではなくバスローブ。胸元が大きく開いていて、やたらと色っぽい。じろじろ見るのは失礼と思うのに、目が追いかけそうになり、誤魔化すように口を開く。
「マッサージは効果なかったでしょうか」
「いや。よかった、と思う。だが、今夜はもういい。もう寝よう」
「それでは、私はこのソファをお借りします」
床は駄目らしいのでソファを借りようと思ったのだが、公爵は不服そうな顔をする。
「なぜ。今みたいなのがまた来たら、どう説明するつもりだ。一緒のベッドで寝たほうがいいだろう」
えええ。
まさか一緒のベッドでいいと言われるとは思わなかった。
「それは…。しかし…本気ですか」
「手は出さないと約束する。警戒しないでいい」
いや、さすがにその心配はしていないけど。
公爵が俺の手をとり、ベッドへ向かう。
「あの、私もベッドにいては、眠りにくいのでは」
「……そうかもしれない」
「だったら」
「駄目だ。親族を欺くんだろう」
主人と同じベッドで寝るなんて恐れ多いと遠慮する俺と、恋人設定なんだからと譲らない公爵。何往復か問答をしたのち、結局一緒に寝ることになった。
明かりを消し、ベッドの端の方に横になった。
広いベッドだから、成人の男二人が横になっても余裕がある。少しくらい腕を横に伸ばしても、彼に触れることはない。
スプリングも具合よく、気持ちよく眠れそうだった。しかし暗闇で目を閉じたら、マッサージで見た公爵の背中が脳裏に浮かんだ。素肌の首筋。服越しに掌で感じた肩の筋肉の盛り上がり。太腿で触れた、引き締まった腰。
それらを思いだしたら、落ち着いていたはずの鼓動がなぜか速まった。にわかに隣にいる公爵の気配が気になり、身体が昂りだす。落ち着けと思えば思うほど公爵を意識し、逆に身体が熱くなってしまった。
なんで。
どうしてこんな反応…。
まずいな…。
公爵に背を向け、俺は胸元に手を当てた。
これは、飲み慣れない酒のせい、のはず。
公爵も、俺がいて眠れるんだろうか。
気配を窺うと、時折不自然な息遣いや衣擦れの音が聞こえ、彼もまた眠れていないようだった。
公爵の気配を気にすると、さらに眠れない。どうしてこんなことになったんだ。夜も更ければ、さすがに訪問客もいないだろう。しばらくしたらソファに移動すべきか、などと悩みながら時間を過ごしているうちに、どうにか眠りについた。
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