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第12話前半クライド

 ユーインと、ついにキスをした。  そもそも恋人のふりをする提案は、話の流れからの思いつきに過ぎなかった。だがはじめてみたら、思いのほかいい手だと思った。恋人のふりということで触れあえるし、それによって彼に私を男として意識させることができる。物理的な距離が縮まれば心の距離も縮まるに違いなく、ただの雇用関係からの脱却が図れるかもしれない。  手はじめに恋人のふりを理由にカフェへ連れだし、手に触れた。恥ずかしがって周囲を気にする彼が、悶絶するほど可愛らしかった。  だがあの恥ずかしがり方は、周囲の目を気にしたもので、私を意識してのことではなさそうだった。接触が増えれば、もっと意識してくれるかもしれない。パーティではこれ以上に接近してみようと決意して臨んだ。  覚悟を決めていたから、かなり積極的に接近できた。相変わらず彼は周囲を気にして恥ずかしがっていたが、顔を赤くして見上げてくる眼差しは、それだけではないものが含まれているような気がした。  気のせいだったかもしれない。抱きついてきたのも恋人役としてだろう。それでも、仕事のときの毅然とした態度からは想像もできない愛らしい表情を見ることができ、そしてその身体を一瞬でも腕に抱くことができて、興奮のあまり理性が飛びかけた。  さらにその夜は、よく理性がもったものだと我ながら感心する。彼の身体が反応していても、そういう気持ちがあってのことではないとわかったから、どうにか耐えられた。  しかし翌朝聞いた彼の言葉。それは可能性を感じられるもので、抑えようとしても気持ちが舞い上がった。そんな矢先にオプション価格表などというものを見せられたら、理性など吹き飛ぶ。キスの項目を目にしたら、もう自分を止められなかった。  半ば強引に、唇を奪った。  拒まれなかったのが嬉しくて、夢中で何度もしてしまった。  そのせいか、逃げるように出ていかれてしまった。  あれは、どう思ったのだろう。  主人に強く求められたからしかたなく応じた。だがしつこすぎて嫌になった。そんな感じだろうか。  やりすぎたか…。  翌日は自制し、いつも通りの仕事の顔を取り繕って業務をこなした。 「クライド様、グリーンカレーさんから届いております」  郵便物の仕分けをしていたユーインが手紙を渡してきた。その声が少し弾んでいることを若干不愉快に思いつつ手紙を受けとり、目を通す。  少し前に、彼に手紙を送ったのだ。国王の誕生祝賀会で王都へ行くので、その際に会いたいと。その返事だった。 「ローレンスも祝賀会に出席するそうだ。そのときに紹介しよう」 「ありがとうございます!」  ユーインの顔に喜色が浮かぶ。  彼が喜んでくれるのは嬉しいことのはずなのに、あまり面白くなかった。  自分以外の男と会うことを喜ぶ姿など見たくないのだ。  ローレンスが魅力的な男であることを知っているから、なおさら会わせたくない。ユーインがローレンスに惹かれでもしたら。想像しただけで奴に対し嫉妬心が芽生える。そもそも会ってもいないうちからこれほど興味を持たれているなんて、許せない。  ローレンスの呪い人形を用意したくなりそうだ。  私を、私だけを見てほしい。  抑えようのない衝動に駆られて席を立つ。そして自分の机へ戻ろうとする彼の腕を掴んだ。  彼が顔を上げる。 「ユーイン。私たちはぎこちなくて、このままでは恋人同士には見えないだろう。だから王都へ行くまでに、もう少し自然に見えるように練習が必要だと思う」 「練習…? どのような…」  戸惑う彼に顔を近づけた。  恋人のふりという名目で、暴走している自覚はある。だが止められない。  意図を察した彼が驚いた顔をし、息を呑んだ。しかし胸を押されることはないし、顔を背けられたりもしなかった。息がかかるほど顔を近づけると、彼の瞼が閉じる。それを許諾と受けとり、唇を重ねた。柔らかな感触。胸が熱くなる。  嫌われてはいない。拒まれてはいない。  少しは好かれているだろうか。  それとも金のためと割り切って受け入れているだけだろうか。  わからないが、拒まれないのなら希望はある。  嫌がられないラインぎりぎりを見定め、やり過ぎないよう、焦らずに、押し続けるのみだ。  ※※※  翌日も、いつも通り仕事モードの顔を取り繕い、公爵と共に仕事をこなした。  公爵もいつも通り、貴族然とした態度で俺に接する。もしかしたら昨日、一昨日の出来事は幻覚だったのかもしれないと思いそうになるくらい、普段と同じ。 「今日はこれで終わりにする」  夕方、執事の雑用を済ませて執務室へ戻ると、書類仕事をしていた公爵が席を立った。俺は今日のノルマが少し残っているので自分の机に戻ろうとしたら、公爵に腕をとられた。 「ユーイン…」  囁くような、どことなく色気の滲んだ声で名を呼ばれ、それによって二人のあいだの空気が変わったのを感じた。  今日も…? と思い、身動きできなくなった俺を、公爵がそっと抱き寄せる。鼓動が急激に加速する。 「ユーイン…顔を上げてくれ」 「……」 「キスだけ。それ以上はしない」  耳朶に彼の唇が触れた。その感触にピクリと肩が震える。  耳へのキスは価格表にもなかったはずだぞと反射的に思ったが、口にはできなかった。心臓が苦しいほど高鳴ってしまう。迷いながら少しだけ顔を上げると、すかさず唇を重ねられた。  昨日と同じように、最初は触れるだけ。気遣いに満ちた優しいキスを繰り返され、最後に少しだけ唇を舐められ、離された。  公爵は黙ったままの俺の様子を窺い、そっと髪を撫でて、部屋から出ていった。  さらに翌日。公爵は俺を伴い、招待されていた管弦楽団の演奏会に出席した。その帰路、二人きりの馬車の中でキスをされた。  そんな調子で毎日一度、キスされるようになった。  初めは触れるだけ、ちょっとだけ唇を舐められる程度だったものが、一週間もすると、深いものへと変わっていった。  初めてのディープキスは、ぎこちないものだった。俺は未経験だったし、おそらく公爵もそう。温かくて柔らかい感触が衝撃で、応じる余裕などなかった。驚いたが、嫌ではなかった。それから毎日ディープキスするようになり、どこをどうされると気持ちよくなるか探られ、暴かれ、快感を覚えるようになるまで、そう時間はかからなかった。 「ユーイン…」  切なげな、それでいて腰にくる色っぽい声。 「いまだけは…本物の恋人と思って…」  舌使いだけでなく、その声と言葉にも煽られる。 「ん…、ふ…っ、…ぁ」  キスの合間に漏らす息遣いが、どうしてもいやらしくなってしまう。  それを聞いた公爵が、我慢しきれないといったように俺のシャツの裾を引っぱりだし、中に手を入れてきた。腰の辺りを、じかに触られる。性的なものを感じさせるその手つきに、俺の性感も否応なく高められ、彼の腕に震えながらしがみつく。  オプション価格表に「腰に触れる」と記載していたためか、腰には触られるが、それ以外の場所までは手は伸びてこない。その代わり、じっくりと味わうように腰を撫でられ、唇を貪られる。  やばいくらい気持ちいい。でもこのままじゃマズい。  快感が高まり、前が硬くなるのを自覚し、少し腰を引く。それを合図にキスが終わる。たぶん公爵のほうも、俺と同じように昂っているのだと思う。  キスを終え、公爵の顔を見ると、欲情を孕んだ目をしている。性欲だけではない、別の熱も感じられる眼差し。  どうしてこんなことを、とは、聞けなかった。  こんなに毎日、愛おしそうにキスをされていれば、思考停止していたってわかる。  公爵は俺に好意を持っているんだろう。  嫌ではない。  むしろ、すごく……。……。  だが、どうして? とも思う。  小説では、公爵はずっと人間不信だったはず。初めて心を開いて恋をするのは、これから王都で出会う令嬢のはず。  執事に関心を寄せる描写なんてなかったはずなんだが。  なにがどうしてこうなったのか。小説のことやこれまでの実際の出来事をあれこれ考えながら、マシューから郵便物を受けとる。その中には俺宛の、父からの手紙もあった。俺の様子を窺う手紙だ。父は元気で、子爵家も相変わらずの様子。  そういえば子爵は初め、俺ではなく父を公爵家へ向かわせようとしたのだった。だが公爵家の用件は資産税のことだろうということで、実際に処理をした俺が行くことになった。  もしかして小説では、父が公爵家に来ていたんだろうか。小説では、俺と公爵が出会うことはなかった。しかし実際は俺が来た。だから話の流れが変わったということか。  あり得るかもしれない。  いずれにしろ、まもなく王都へ行く。  王都へ行ったら、公爵はヒロインに出会うのだ。  公爵が初めて心開く女性。彼が運命の人と呼ぶ令嬢だ。  小説での令嬢に対する彼の情熱はとても強く描写されていた。いまの公爵の俺への想いがどの程度のものかわからないが、令嬢への愛と比べたら、きっとささやかなものだろう。  彼女に出会ったら、公爵の俺への気持ちは消えるだろうし、偽の恋人関係も終わるだろう。だからこれ以上公爵との関係を深めてはならないし、よけいなことは口にすべきでない。  俺は、公爵に幸せになってほしいと思う。  公爵にふさわしいのは、庶民の使用人の男などではなく、貴族令嬢だ。  身分の釣り合いのとれた女性に、まっとうな恋をする公爵を俺は応援したい。  しかし。  その令嬢は公爵を裏切ることも知っている。結婚直前になり、令嬢の浮気が発覚するのだ。  俺はいったい、どうしたらいいのか。  誰に相談することもできない、もやもやしたものを胸に抱えながら数日を過ごし、やがて王都行きの日を迎えた。

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