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第12話 清水田学園のキング_時計塔の千夜4

 千夜は尖塔の台座に座り足を組んだ状態で、遠くへと思いを馳せているように見えた。その顔は月明かりと文字盤の輝きに照らされて、物悲しげに見える。淡く儚く揺れるスカートだけではなく、彼女の存在自体もゆらゆらとゆらめき、落ち着かない様子に見えていた。  闇の中に浮かぶ美しいその姿は、まるで真っ黒な闇の中に浮かぶ一縷の希望のようにも見える。黎は吸い寄せられるように彼女へ近づこうとした。 「時計塔の千夜。なんてキレイなんだ」  熱に浮かされたように、彼はそうぽつりと呟く。すると千夜は黎のその声に反応を示した。ぼーっと漂っていただけの視線が、はっきりとした意識を持って、黎と光彰が立つ場所へと巡る。そこに黎を認めると、そのまま黙って彼を観察し続けた。夜風に髪をたなびかせながら、僅かに口を動かして何かを囁いている。 「なあ、光彰。千夜何か言ってないか? 遠くて聞こえない……」  黎は彼女の美しさに惹かれて近づきたいという思いと、今自分へ向けられた言葉を聞き取りたいという思いに囚われ、尖塔の台座へ上がるステップを掴んだ。千夜は黎のその行動を見ると、にっこりと穏やかな笑みを浮かべた。その柔らかいながらも妖艶さを孕んだ笑みに、黎は思わずドキリと胸を鳴らす。そこに、それまで黙って見ていた光彰が舌打ちをする音が響いた。 「待て」  光彰は黎を抱え上げると建屋の壁から彼を引き戻した。軽々と黎を抱え上げると、視界に千夜が入らないようにするため、手で目を塞ぐ。 「黎、あまりアレに近づくな」  光彰がそういっているにも関わらず、黎は誘蛾灯に近づく虫のように千夜へ近づこうとしている。世話になっている最上家の人間の指示を黎が無視することなど、本来であればあってはならない。 「でも、行かないと……」 「お前が会いたいのは、俺が使役している千夜だろう? アレはお前が会いたいものとは違うんだ。誘い込まれるな」  その腕の中を抜け出そうとする黎の顎を掴んで、光彰はその目を覗き込んだ。光彰がそうしても黎は時計塔にいる千夜を見ようともがき続けている。その状況を腹に据えかねたのか、もう一度激しく舌打ちをした。 「千夜、ここに来い。黎に姿を見せろ」  光彰は黎の目を見たままそう言うと、空いている方の手で黎の体を自分の方へと引き寄せた。黎は光彰がなぜ彼に抱き締められているのかも、自分に向かって何を言っているのかも全く分からない。話についていけなくなってしまい、困惑した。 「光彰? なんで俺にそんなこと言うんだ?」  身動きが取れないほどに引き寄せられたまま黎が尋ねても、光彰は何も答えてくれない。しかし、その代わりに背後から 「何よ、機嫌悪いのわかってるでしょう? ほっといてくれない?」  という不機嫌な女性の声が聞こえてきた。 「えっ?」  黎は驚いてそちらを確認しようとしたが、そうする前にふとそこに千夜がいるのだろうかと思い、恐ろしくなってしまった。そうして僅かに身を固くする。 「黎。お前が会いたがってた千夜は、今お前の後ろにいる。絶対に大声をあげるなよ。そして、その姿をちゃんと見るんだ」 「えっ! いやいやいや、無理無理無理!」 「なんでだよ。千夜に会いたかったんだろう? 大丈夫だって、何もしないから……」  光彰はそう言って黎を抱きしめた。そのまま半回転して黎と千夜が対面出来るようにしようとしている。黎は必死になって光彰にしがみつき、それを全力で拒否しようとした。 「いや、無理だって! ちょっと待て! だって、お前の後ろに幽霊がいるってことだろう? 無理無理、今まで怖いと思ったことなんて一度も無かったけど、なんか今急に怖くなってきた」  黎はそう言って怯えながらも、光彰の言いつけを守りきちんとと声を顰めていた。光彰もそれに合わせて声を顰めた。黎の黒い髪を指で梳くと、そのまま小さな子供を褒めるように頭を撫でた。 「……ヨシヨシ、大声出すのをちゃんと我慢したな。で、ちょうどいいからこのまま聞いてくれ。お前の後ろにいる千夜は霊体じゃなくて実体化している。だから見ても普通の人間となんら変わりない。怖くないはずだ」 「ほ、本当か?」 「ああ、本当だ。お前が怖がるべきは、俺が使役する千夜じゃない。それに、お前は千夜を知ってるんだ。だから、顔を見て思い出してやれ」 「俺が? ……千夜を?」  思わず大声をあげそうになった黎は、近づいて来た光彰の顔にギロリと睨まれてしまった。声のボリュームを落としながらも、彼が千夜を知っていると言われたことに全く身に覚えがなく、狼狽えているようだ。 「時計塔の千夜の噂とかじゃなくて?」 「そう。千夜自身を知ってる。生きている頃にお前もちゃんと会ってるんだ。並木千夜だよ、並木千夜。その名前を聞いても分からないか? 俺が中等部にいた三年間付き合ってた、俺の交際相手だった人だよ」 「はあ? も、元カノってことか? その人千夜っていう名前だったか? 俺全然覚えてないぞ」  驚愕の表情を浮かべる黎は、思わず光彰の肩を掴んだ。黎と光彰はずっと一緒にいた。それなのに、彼の恋人の名前が千夜だと言われても到底信じられなかった。本当に彼が千夜と付き合っていたのなら、黎が忘れるはずなどないだろう。 「そうだ。俺はお前にちゃんと話もしてたし、お前にも会わせている。ただ、今は幽霊なわけだから、死んでるのはわかるよな?」  そう言う光彰の目は、僅かに涙に濡れていた。それを見て黎もはっとした。千夜は亡くなった生徒の霊だ。それはつまり、光彰の言う通り、彼女は既に亡くなっているということになる。  自分は今、光彰に恋人が死んだ話を蒸し返させているのだと実感した黎は、申し訳なさで胃が痛んだ。 「千夜は噂の通り、高校三年の時にここから落ちて死んだ。その頃には俺とはもう別れていて、どうしてここから落ちたのかは俺にも分からない。警察は自殺だとすぐに結論づけてしまったけれど、温田見と同じで何に悩んでいたかまでは調べてもらえなかったんだ。当時の千夜には大きな悩みがあったから、そう思われても仕方がなかったのかもしれない」 「そうなのか……。でも、なんで俺はそれを覚えてないんだ? お前にそんなことがあったのに忘れるなんて、おかしいだろう?」  信じられないという顔をして、黎は記憶を探り始める。今まで三年間何度も聞いていた『時計塔の千夜』の話を思い出していた。これまで光彰とこの話をしたことは、数えきれないほどにあったはずだ。それでも、光彰は黎に今の話をした事は無い。少なくとも、黎は今まで一度もなかったはずだと認識している。 「お前は多分、千夜の正体を知ってショックを受けたんだろう。一緒に葬儀に出て、見送って、そこまでは大丈夫だった。でも、忌引き明けからしばらくして、お前は高熱を出して寝込んでしまったんだ。その日から前後数日の記憶と、千夜に関することをまるで忘れてしまうようになった。最初に千夜を知らないって言われた時は、本当に驚いた。それから話すたびに忘れていくんだよ。こうやって話すのも、これが初めてな訳じゃない。もう何度目なのか分からないくらいには、俺からお前に話しているんだ」  光彰はそういうと、黎を抱き寄せていた腕を解いた。そして、半歩ずれて黎の隣に立つ。 「さあ、しっかり確認してみろ。あれが俺と契約している、並木千夜の霊だ」  光彰に肩を支えられ、黎は覚悟を決めた。霊と向き合うのは恐ろしいけれど、自分が忘れているらしいことがとても大切なことである気がして、覚悟を決めようともがく。すると、それを千夜が後押しした。彼女が優しく黎に呼びかけたのだ。 「黎」  彼は思わず目を見張った。驚きで声がうまく出せない。ただし、それは恐怖で体が強張ったからではない。むしろ、その逆だった。  その声が響いた先は、黎の胸の奥のほうだったのだ。それはじわじわと胸を温めていく。驚くほどに聞き覚えのあるその響きに、彼の記憶の奥底が激しく揺さぶられていた。 ——これ、俺の大好きだった人の声だ……。  恐怖心が消え去り、驚きが勝ったのだろう。どうしてもその声の主を確かめたくなった黎は、ゆっくりと千夜の方へ近づいていった。 「黎、わかる?」  フェンスのそばに立つ少女が、まるで母のように優しく彼を呼んでいる。彼女は、尖塔の台座に座る『時計塔の千夜』と同じサマードレスを着ている。明るい色の髪はとても長く、春の風を受けてたなびいていた。  ただ彼女は『時計塔の千夜』のように光ってはおらず、まるで生きているようにはっきりと実体を持って彼の目の前に立っていた。歩き始めた幼子のようにゆっくりと近づいて来る彼に目を細めつつ、懐かしいやりとりをしようと試みた。 「ねえ、ちょっと。黎、その調子じゃあ、あんた私のことまだ忘れてるでしょう?」  その声は、何度も彼を安心させてくれた。優しく褒めてくれて、暖かく包んでくれた。最上の家にいて寂しくはなかったものの、血のつながりのある人間を求める時には、その声でないとどうしても満たされなかった。  今目の前で自分を指差している高飛車な姿は、記憶の中でその人物が時折おどけて見せてくれた姿と重なっている。 ——「僕の弟はそんなに弱っちいのかな?」  気弱だった黎にいつもそう言って発破をかけてくれた。挑戦して傷付けば、いつも優しさで包んでくれた人だった。優しくて温かい笑顔と、強くて美しい視線。その全てが憧れだった人と、目の前のドレスを揺らすふわりと柔らかい笑みの女性。その二人の人物に、黎は間違いなく同じ人物を感じていた。   「にい……さん?」  黎の頭の中で、目の前の千夜の姿に重なるのは、遠い記憶の中の兄だった。男性としては小柄で細身だと言われていた兄の千晃(ちあき)は、確かに早くに亡くなっていた。黎の両親は長く海外にいるため、兄はそばにいてくれる唯一の肉親だった。  その兄を亡くした日の黎は、寂しさに気が狂ったように泣き喚いていた。 ——「俺たち、お互いの利益のために付き合うフリをするから」  そう言っていた光彰が、黎の記憶の中で笑っていた。その隣にいるのは、長い髪を束ねて女子用の制服を着た兄の姿だった。 ——「光彰が僕の夢を叶えてくれるんだって」  そう言って笑う兄の姿を見て、やっと幸せそうな笑顔を見せてくれたことが嬉しくて大泣きした。そのことを黎はようやく思い出した。 「……ち、千晃兄さん?」  黎の言葉に、千夜は目を見張った。そして、光彰と視線を合わせると、お互いに微笑み、頷きあう。千夜は目の前までやって来た黎の顔を両手でそっと包んだ。黎は驚きながらも、この感覚に確信を得ていた。千夜はほおに一筋涙を零し、弟をぎゅっと抱きしめる。 「……そうだよ、黎。久しぶり」  その二人の抱擁を、『時計塔の千夜』が尖塔から見下ろしていた。

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