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第13話 清水田学園のキング_時計塔の千夜5

「黎、本当は僕の……いや、私のことを認められなかったんじゃない? だからこの姿を見ても思い出してくれなかったんじゃ……。思い出せなくなるほど嫌だったんじゃない? 私、あんたを苦しめてた? こんな姿の兄なんて、顔も見たくなかったんじゃ……」  千夜はそう言うと、レモンイエローのドレスの裾を手でひらりと翻した。サラサラと落ちてくる肌触りの良さそうな生地は、涼やかに月明かりを受けて輝いている。ついさっきまで勝ち気な表情を見せていたとは思えないほどに、その目は悲しげに黎を見上げていた。 「そんなこと……」  黎は、自分が千夜のことを全く思い出さなかったために、その存在を否定していると思われてしまったことで、彼女を深く傷つけてしまったのだと思い、居た堪れない気持ちになってしまった。  しかし、そうで無いことは自分にははっきりとわかっている。千夜が千晃なのだとわかってしまったら、それにまつわる記憶は驚くほどするすると頭の中へ蘇って来たのだ。  いつも彼に優しくしてくれていた兄が、本当は女性として生まれたがっていたこと、そしてそれが原因で勘当されたこと。そして、それを光彰の口から聞かされたこと。それがショックで一晩中泣き明かした事も……。亡くなる前のことであれば、全てを思い出すことが出来た。  あの時の涙は、彼が女性になろうとしていることを嫌がって流したものでは無く、自分の無力さに打ちのめされて流したものだった。そんな思いで泣いていたくらいだ、千夜に会うことを嫌がったりするわけが無い。 「そんなこと無いよ! 俺、兄さん大好きだったし、今でも好きだ。だって今、そのスカートを揺らしてるところを見て思い出したんだよ。兄さんが柳野を出て並木の家に行った日の事も、そこで並木のお祖父様から支援を受けて千夜になったことも。そうやってスカートを揺らして嬉しそうに笑ってたんだ。俺は遠くから見てただけだったけど、それでもすごく嬉しかった! 千夜がその兄さんだって言うのなら、光彰と一緒にいるってことだよね? 光彰のそばにいれば、俺もこれからは自由に会えるってことだよね? そんなの嬉しいに決まってるだろ!」  黎はそう言って千夜を抱きしめた。霊であるため本来なら触ることも見ることも出来ないはずだが、光彰が実体化していることで、生きている人間のように触れることが出来る。 「わっ……! つ、冷たい」  見た目は生きている人間そのままだ。ただし、その体は氷のように冷たい。その事に、黎は少なからずショックを受けた。いくら意思を通わせることが出来たとしても、死んでいるという事実は変わらないのだと、触れたことで唐突に突きつけられてしまったのだ。  光彰は黎が怯んだ事に気がつき、黎の手を優しく解いた。そして、ゆっくり千夜と距離を取らせると、冷えた手を握って暖めていく。 「……悪い、先に言えば良かったな。出来るだけ触らないようにしておけ。ショックを受けるから」  そう言って、千夜へ目で離れるように指示を出した。千夜は黙って頷くと、そのまま後ろへと下がっていく。それも、歩いて下がったのではない。すーっと滑るように下がっていった。 「ねえ、黎。光彰が使役するのって浮遊霊だっていう話は聞いた?」  千夜は敢えて自分が人では無いものであるということを示そうと、人間には出来そうも無いことを繰り返して見せている。音もなく移動して見せたり空高く飛んでみたりという行動を繰り返した。 「うん、聞いた。さっき聞いたばっかりだよ」 「うん。つまりね、私も浮遊霊なわけよ。何かしらこの世に未練があって残ってるんだけど、私にはそれがなんだったのかっていう記憶が無いの。それを見つけるまでは光彰にこき使われないといけないから、その間は黎のそばにいられるのよ。時々こうやって話しましょう。そして、次に本当のお別れをする日が来るまで、ゆっくり心の準備をしていきましょうよ」  そう言ってふわりと笑った。それは、兄がいつも見せてくれていた穏やかな笑みだった。いつも黎の悲しみを包んで溶かしてくれていた、あの暖かい笑顔だ。黎の胸の中にそれが届くことで、長年不足していた何かが埋まっていくような気がしていた。 「うん、わかった。俺も次のさようならは、納得して言えるようにしたいよ」  そして、千夜に手を差し出した。千夜はそれを見て躊躇った。光彰へ指示を仰ぐように視線を送る。それに気がついた黎が、光彰に向かって笑いかける。 「大丈夫、最初からその手が冷たいってわかってれば、怖くない」  そう言うと、少し手を伸ばして千夜に握手をせがんだ。千夜は光彰が頷くのを確認すると、恐る恐る黎の手をとる。少し強張ってはいるものの、握りしめても怯まない弟の様子を見て、彼女はほっと胸を撫で下ろした。 「……そうね。前もって知ってれば、ショックは和らぐわね」  千夜はそう言って、またふわりと笑う。そして、小さかったはずの弟の手を少し握りしめると、その筋ばった手に時の流れを感じて目を潤ませた。 「三年経ったらこんなに成長しちゃうのね……」  そう言ってもう一方の手で、黎の手を摩った。  光彰は二人が手を握り合っている姿を見て、僅かに表情を緩ませた。この世にたくさん人がいようとも、これほどに彼の心を動かすのはこの二人だけだろう。愛しい二人が幸せそうにしている姿を見て、彼は悦に入っていた。  しかし、忘れずに伝えなければならないことがある。今夜彼が黎に話さなければならないことは、あともう一つ残っていた。 「黎、俺が使役している千夜は、お前の兄だった千晃のことだとわかっただろう? 千晃は優しいやつだったけれど、気弱で儚いイメージとは違うよな?」  光彰にそう尋ねられた黎は、昔の兄のことを思い出そうとして、千夜の顔をじっと見つめる。その目の奥に、兄の姿を探した。 「そうだな、儚いっていうイメージとは違うな。細くて優しいイメージはあったけれど、口は悪かったし強い人だった。仕草が女性っぽいって揶揄われることは多かったみたいだけれど、そういうのに負けることってなかったと思うし、むしろ揶揄い返して相手を怯ませて楽しんでたことの方が多かった気がするよ」  それを聞いていた千夜は楽しそうに吹き出した。得意げに胸を張り、武勇伝を語る。 「そうそう、オカマは気持ち悪いだのなんだの言われてたけど、抱きついてキスするふりしてやったりとかしてたわよ。いちいち揶揄ってくるくせに、ちょっとやり返すと真っ赤になって逃げるような奴らばっかりだったわね。……だからわかるわよね? 噂になってる『時計塔の千夜』は、私じゃ無いってこと。それに、今も『時計塔の千夜』はあそこにいるでしょう?」  そう言うと、相変わらず尖塔の台座に座ったままで、ぼんやりと遠くを見ている千夜を指差した。 「え? ……あ! そうか、そうだ。だって、今本物の千夜はここにいるんだもんね。じゃあ、あれは……」  黎も千夜に倣い、月光を受けて黙ったままの『時計塔の千夜』を見上げた。彼女はかれこれ一時間ほど、あのままずっと遠くを眺めている。一度も身じろぎせず、立ちあがろうともしない。幽霊なのだから身じろぎなどしなくてもおかしく無いのだろうけれど、それを差し引いても尚不自然さが目立った。 「そうだ。あそこにいる千夜は偽物ってことだ。あの噂は、千夜がここで死んだことを利用した作り話なんだろう。そして、その話を利用して人を殺してる奴がいるってことだ。わざわざあんな幽霊(もの)を作り出してまで、人殺しをしたいと思ってる奴がこの学園にはいるんだよ」 「そんな……」  時計塔の千夜に呪われて、温田見厚は飛び降りた。しかし、呪われたと言われるにはあまりに不釣り合いな、幸せそうな笑顔で最後を迎えている。  そもそも千夜を使役している光彰は、温田見を殺したいと思ったことすら無い。それなのに、彼は千夜に誘われて飛び降りた事になっている。 「温田見くんはあの千夜を作り出した人に殺されたってこと?」  光彰は黎の目を見ると、しっかりと頷いた。 「時計塔にいる霊は千夜だけじゃ無いが、そのほとんどは無害だ。自分が死んだ理由がわからずに彷徨ってはいるものの、誰かを殺そうとするほどの強い思いは持っていない。そうなると千夜が殺しているのかと言う話になるが、千夜は俺の支配下にある。『時計塔の千夜』の噂は千夜が亡くなった直後からあるが、その頃から既に千夜は俺と契約を交わしているんだ。千夜が何をするかは、全てが俺の命令次第だ。そして、前にも言ったが、俺には人を呪い殺したいと思うほどの執着が無い。つまり、俺と千夜の預かり知らないところで、誰かが俺たちを利用して殺人を行なっている。それも、もう何度もだ」  光彰はそういうと、偽物の千夜を見上げた。相変わらず遠くを見つめたままの姿で、微動だにしない。 「あれはおそらく霊が見えない人間が作り出したものだ。見えない人間が抱く幽霊のステレオタイプみたいなものだろう。少し透けて見える、足が見えない、しゃべらない。でも、千夜は実体化して動くことが多いし、足はもちろんあるし、止めないとずっと喋ってるようなやつだ」 「……ちょっと、私のことバカにしてるの?」  千夜はそう言って光彰の襟首を掴んで持ち上げた。光彰はその手を指差しながら、 「噂を流している奴らは、千夜がこんなに粗暴だとは誰も知らないだろう?」  と言った。  黎は思わず吹き出しそうになり、必死に口を押さえて堪えた。光彰の言う通りだろうと思うと、おかしくて仕方が無かった。  兄に申し訳ないという思いはあるものの、嬉しさが勝ってしまった。二人のそういうやり取りを見ることが大好きだった黎は、喜びで胸が苦しいほどに詰まっていった。 「……大丈夫か?」 「え? 何が?」  あたたかくなった胸を押さえていると、二人が突然黎を心配し始めた。泣き出しそうな顔が、彼の目の前に二つ並んで迫っている。 「う、ひっ。あ……れ?」  気がつくと、嗚咽を漏らしていた。小さく揺れる体に黎が戸惑っていると、光彰がその体を抱きしめてくれた。 「黎、どうしたの? なんで泣いてるの? 気分悪くなった?」  黎は千夜にそう言われ、自分の手元を見た。口元を押さえていた手がびしょ濡れになっている。長袖のスウェットの袖が濡れるほどに流れていたのは、全て自分の目から流れた涙だった。 「あ、ごめん。久しぶりに二人のやりとりが見られて、嬉しくて」  そう言いながら、慌てて袖を使って涙を拭った。 「そうか。お前は千夜とずっと話してなかったからな……。こいつの笑ってる姿、いつぶりに見たんだ?」 「え? えーっと、俺が兄さんの笑ってる姿を最後に見たのは……」  そう言って黎は記憶の中を探り始めた。 「あー、多分あれだ。兄さんが最上の家に行ってて、そこから帰る途中にお前に手を振ってた。すごく幸せそうな笑顔で、俺はそれを家から見てて……」 「千夜が最上に来て歩いて帰って行った日か? お前、それは……」  その時、黎の頭の中に千夜の声が聞こえてきた。遠い記憶の中で、光彰に向かって嬉しそうに御礼を言っている声だった。 ——「光彰、ありがとう! また話聞いてね!」  その時、彼女はこのドレスを着ていた。それが、彼女が人生で初めて履いたスカートだったと後で知った時、黎は無性に悲しくなったのだ。今突然、そのことを思い出した。 ——「折角好きな人とデートが出来たのに」  そう言ったのは、黎自身だ。ようやく叶った恋人とのデートの日に、千夜は冷たくなって帰ってきたのだった。 ——あの時、兄さんは誰と会っていたのだろう。 「黎!」  薄れゆく意識の中で、千夜が寄り添う相手を探した。今にもその顔が見えそうになった時、彼の目の前には血を流して倒れている千夜の姿が現れた。 「いやだあああっ!」  彼女のサマードレスは、血で真っ赤に染まっていた。明るい色の髪は、その血が無様に固めてしまっていて、酷く汚いものに見えた。  記憶の中から飛び出してきたその姿に、黎は耐えきれなかった。光彰の腕の中でひとしきり叫ぶと、そのまま意識を失ってしまった。

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