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第51話
宗一さんは、ぎりぎりまで波打ち際に寄り、俺の手をとった。
「息するのが気持ちいい、って何か良いですね」
「ふふっ。私も初めて思ったことだけどね」
美しいものに触れるほど、自身の醜さに嫌気がさしてしまうことも多いけど。確かに洗い流されるものもあるんだろう。
俺にとっては恐怖と不安。自分に対するやるせなさ。
少しずつではあるけど、心にこびりついたものが落ちている気がする。自分の力で行動しようすることが増えて、ようやく自我が芽生えた。
本当に幸せだ。
「白希。次は夏に海に行こうね。泳いでもいいし」
帰路につき、宗一さんはサングラスを外して微笑んだ。
「良いですね。でも泳げるかどうか……!」
「水に浸かるだけでいいんだよ。お風呂に入れるんだから平気さ」
「海は波がありますよ?」
「私が支えてあげるから心配ない。ね?」
鼻の先を指でつつかれ、わっ、と瞼を閉じた。
彼がいればとりあえず大丈夫な気がしてくるから怖いなぁ。
「その時は宜しくお願いします。……宗一さん、今夜はなにか食べたいものあります?」
「うーん、そうだねぇ……お刺身があったから、海鮮丼とかにして食べたいかも」
「わかりました。お任せください!」
無事に家に帰り、彼のリクエスト通り鮪の丼をつくった。ただお米に乗せるだけなのに、たくさんの海苔をかけて食べると至福の味で、宗一さんも満足そうだった。
「家に魚があるから向こうで食べなくて良かった。白希が料理上手になって、私は本当に幸せだよ」
「あはは、これは乗せるだけですから」
お腹も満たされて、二人でソファで寛ぐ。その時、ふとリビングの小棚が目に入った。
「……」
あまりに見つめてしまっていた為、気付いた宗一さんが首を傾げる。
「白希? どうかした?」
「あ、いいえ! あ……あの棚、黒くてかっこいいな、って思って」
咄嗟に答えてしまったが、嘘ではない。すると宗一さんも「ありがとう」と言って笑った。どうもオーダーメイドらしく、モダンな造りにこだわりを感じた。
「白希はモノクロが好きなのかな」
「言われてみればそうですね……白か黒が一番分かりやすいし、何でも合わせやすくて好きです」
色使いって難しい。自分に合うとも限らないし、それなら白黒のようなパキっとした感じが好きだ。
グレーがなくて、意志がはっきりしてる。ある意味宗一さんのよう。
俺も、実はそうなりたい。曖昧で逃げ腰な自分を変えたかった。
浅ましいかもしれないけど、本当はもっと宗一さんに近付きたい。甘えたいし、甘やかしたい。
意を決して、ゆっくり腰を上げた。棚の前まで行き、そっと天板に触れる。
「宗一さん。な……中……見たら駄目ですか?」
「え」
振り返ると、彼はあからさまにドキッとした。
その反応でほぼ確信する。笑ってはいるけど、間違いなく動揺している。
白希が示したのは上に小さな引き戸があって、下は本や雑誌を入れる収納スペースがある棚だ。
あえて引き戸の中を見たいと言ったのには理由がある。決して個人的なものを見たいと思ってるわけじゃない。だがこの要望が失礼なものだということも分かっている。
「す、すみません。やっぱり大丈夫です」
彼が嫌だと思うことを、無理やりしたくはない。諦めて一歩離れると、彼はゆっくりこちらへ近付いてきた。
「いいよ。白希が欲しいものが入ってるかどうか、分からないけど」
宗一さんは壁に寄りかかるようにして、腕を組んだ。
……彼にとっても重大な決断のはずなのに。
「本当に良いんですか? あ、開けちゃいますよ? 本当に」
「本当に良いよ。止めませんので、どうぞ」
慌てふためく白希に吹き出し、宗一さんは片手をひらひらと振る。温度差が激しいものの、白希はひと呼吸のあと、戸を手前に引いた。
中に入っていたのは、一枚の用紙。それをそっと手に取り、仰々しい文字の羅列を確認する。宗一が真隣にやってきて、悪戯っぽく笑った。
「お望みのものはありました?」
「はい……」
婚姻届。
言葉でしか聞いたことがないもの。それを手にし、白希は消え入りそうな声で呟いた。
「もう宗一さんの名前が書いてあります」
「私はいつでも準備万端だから、あとは妻になる人。の、本当の気持ちだけだ」
……っ。
周りをきょろきょろ見回してると、彼は近くのスタンドから万年筆をとってくれた。それを受け取り、恐る恐るキャップを外す。
「おや、大丈夫? 心の準備は?」
「もう、昨日のうちにできてます。でも書き損じたらごめんなさい」
「それは何枚でも取りに行くから大丈夫さ。……にしても思いきりがいいね。男らしいよ!」
満面の笑みで拍手する彼に、とても誇らしい気持ちになる。ただ乗せられてるだけの気がしないでもないけど、気持ちは彼と同じだ。
用紙をテーブルへ持っていき、手の震えを押さえながら自分の名前を書いた。
「書いちゃったね」
「書いちゃいました」
住所やその他、記入できる場所は埋めていく。待ち望んだ魔法の一枚は、思いの外早くに出来上がった。
「綺麗な字だ」
対面に座る宗一さんは、恍惚とした表情で婚姻届を手にした。
「白希の希は、ご両親にとってなにかの願いなのかな」
「……」
そんなこと考えたこともなかった。何となく語感が良いから名付けたのかな、ぐらいの。
こんな自分でも、生まれた時は彼らの希望になったんだろうか。考えたら急に後暗い気持ちになってしまった。
「ごめん、何でもないよ! それより白希、よく婚姻届があの棚の中にあると分かったね。前から知ってたのかい?」
「あ、いいえ。その棚の中に限らず、自分の部屋と洗面所の棚以外は一度も開いたことありません! 命懸けます!!」
「別に開けてもかまわないけど……じゃあどうして」
不思議そうに両手で頬杖をつく彼に、そっと打ち明ける。
「その……俺のただの妄想というか、自意識過剰だと思ってたんですけど。宗一さんがあの棚を大事そうに撫でるところをよく見てたので」
棚も気に入ってるんだと思っていたけど、それ以上になにか大事なものを仕舞ってる気がした。そしてそれが、俺と彼の関係を結ぶものだったら良い、なんて。
推測は当たったが、今思っても恥ずかしい。自惚れにもほどがある。
だけど宗一さんは、嬉しそうに手を叩いた。
「いやー、今回の観察眼はおみそれしたよ。さすが私の白希だ」
「いえいえ。……えへへ」
と、結局彼に乗せられている。
自分も大概単純で、思わず苦笑した。
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