83 / 104

第83話

車のシートにタオルを敷き、ひとまず助手席に乗った。宗一は暖房をつけてくれたが、悲しいことに気休めにもならなかった。一度下がった体温は簡単には戻らない。 それもこれも彼を苦しめる為にやったことなのに……むしろ返り討ちに遭ったことがたまらなく悔しい。 「さ、お風呂入るよ」 「ちょっと待ってください。何で一緒に入らなきゃいけないんですか?」 彼のマンションに着くやいなや、バスルームに連れていかれた。それはともかく、入るタイミングが一緒というのが解せない。 しかし彼はそれも真面目に取り合わず、お湯を沸かした。 「私も寒くて耐えられないんだ、我慢してくれ。……それに恥ずかしがらなくていいよ。前はよく二人でお風呂に入ってたし、君の裸は見慣れてる」 さらっととんでもないことを言われた。確かに夫婦なら当たり前かもしれないけど、でも……。 依然ためらっていると、水ではりついたシャツを脱がされた。 「ほら、早く脱いで」 く……っ。 後で絶対、仕返しの仕返しをしてやる。 心の中で固く誓い、観念して彼と浴室に入った。 それまでは怒りと憎しみで燃えたぎっていたけど、温かいシャワーを浴びた途端、それらの感情は消え去ってしまった。 身も心も癒されるとはこのことだ。 「あったかい……」 「うん。生き返るね」 不意に、頬を撫でられる。子ども扱いされてるのかと思ったが、彼の視線はそれとは少し違う気がした。 尊いものを見るような目だ。 「さ、お湯も張ったし、中に浸かろう」 今度は冷水じゃない。安心して湯船に浸かった。 気持ちいい。これは心から言えた。例え、宗一の膝の上だとしても。 彼に背中を預けながら、ぼうっと目を細める。 「ひゃ!?」 ところが、腰に手を添えられて思わず震えた。何なのかと振り返ると、存外彼は真剣な面持ちで腕や肩を見てきた。 「痣だらけだ。痛くないかい?」 「別に……」 否定すると、彼は悲しそうな顔を浮かべた。痛くないって言ってるのに、何故そんな顔をするのか意味不明だ。 反応に困る。せっかく良い気持ちになってたのにむず痒くて、身をよじった。 「すまない……」 右肩に、彼の額が当たる。 「今の私に謝っても仕方ないと思いますよ? 私が目覚めた時は、道源様のベッドの上だったので」 何だかものすごいことが起きたような気はするけど、自分の記憶は継ぎ接ぎだ。父の怒号を受け、納屋に閉じ込められ、一ヶ月は過ごした。そして目が覚めたら十年が経ち、東京にいた。 しかも水崎家の青年と結婚して平和に暮らしているなんて、あまりに非現実的だ。殺す為に支配下に置かれていた、と言われた方がまだすんなり納得できる。 そうだ。そうでないとおかしいんだ。無償の愛を受けるなんて。 自分のような出来損ないが、タダで幸せになれるはずがない。 「自分が許せないんだ」 宗一は、聞き取るのもやっとの声で続けた。 「平和ボケしてたと言われたらそれまでだけど……その平和な毎日が本当に愛しくて、大切で、……ずっと浸っていたい幸せそのものだった。君と暮らすことを夢見ていたから、夢が叶って思考停止しちゃっていたのかな」 「夢……」 自分も、まるで夢を見ていたようだ。この現実こそ、夢のよう。できすぎてる。 分からない。何でこの世界の“私”は、これほどまでに彼に愛されてるのか。 「貴方って、道源様と全然違いますね」 「ふふ。がっかりした?」 「さあ。でも意外でした」 正直に答えると、白希のぬれた前髪を指に絡ませ、宗一は笑った。 手が重なり、ぎゅっと握られる。強引だが、嫌ではなかった。 「そういえば、君は温度は下げられるけど上げることはできないの?」 「え? 別に、やろうと思えば……」 できるはずだ。そう思ってお湯に向かって手をかざしたが、これ以上熱くなることはなかった。 「大丈夫。また前みたいに、ゆっくりやればいい。生涯付き合うから心配ないよ」 手首を優しく掴み、後ろに引かれる。 しかし、一々重い。 こんな青年に好かれていたとしたら、前の自分はかなり消耗したんじゃないか? 「何で、記憶がない私にまで執着するんですか。貴方が望む生活なんて、もう絶対戻れませんよ」 「記憶を失おうと、君は君だ。そんなことで手放すような、軽い気持ちで求婚したわけじゃない」 手の甲にキスされる。 「何があってもずっと一緒にいる。独りにはさせない」

ともだちにシェアしよう!