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第84話
優しい眼差しで捉えられ、増々混乱する。
何と返せばいいのか……言葉も出てこなくて、ただ俯いた。
お風呂から出て確認すると、確かにこの家には自分が住んでいた形跡があった。寝巻きに歯ブラシ、洋服や鞄、自分の部屋までしっかり用意されている。
「もしもし。私だ」
手持ち無沙汰でリビングに突っ立っていると、宗一は誰かに電話を掛けていた。
「白希は私が預かった。それだけ伝えておくよ。それじゃ、失礼」
一方的に話して通話を切ったように思える。というか、誘拐犯みたいな内容だったな。
「道源様に連絡したんですか」
「うん。一応言っておかないと可哀想だろう?」
尋ねられたけど、正直分からないので閉口する。ああでも、大我は気にするか。律儀だから夕飯も用意してしまいそうだ。
それか、いなくなってホッとしてるかな。
とは言え、自分もずっとここにいる訳にはいかない。
「いつ私を村に引き渡すつもりですか」
「そんな予定はないよ。君も私も、もう春日美村の土を踏むことはない」
宗一は澄まし顔でグラスを二つ用意し、ミネラルウォーターを入れた。
「だって私達は、あの村が嫌いだろう?」
「……」
グラスをひとつ受け取る。
やはり彼の言葉には、嘘は感じ取れない。ならやっぱり……。
だが、自分が彼とずっと一緒にいるかどうかは別の話だ。
「今の君からすれば、私は赤の他人だ。でも私は君を見守る立場にある。どうか受け入れてほしい」
「はは……私の何が良かったんですか? どうせろくに家事もできなかったでしょ」
要領が悪くて、察しが悪くて、常にびくびくしていたはずだ。大我から聞いた自分は、周りの施しばかり受けて、とにかく甘やかされていた。
しかし宗一はグラスを空にすると、近くまで来てソファに引っ張った。
「そんなことないよ。君は努力家だった。ここに来て一週間も経たないうちに、毎食ご飯を作ってくれるようになったしね」
「へぇ……」
ご飯ぐらいは作れたのか。何かちょっと安心した。
「掃除も洗濯も、お嫁さんになるのに充分過ぎるほど率先してやってくれたよ。でも今思うと、必死だったのかもしれないね。家を失って、知り合いが誰ひとりいない環境に突然放り出されて……私に気を遣っていたのかもしれない」
水をひと口飲んで、グラスをテーブルに置いた。
部屋は暖房で暖まっている。それでも何となく、グラスに手をかざした。
グラスの中の水が固まる。
氷はまだマシだ。温めれば溶ける。
でも自分の記憶は、熱しようと冷まそうと戻らない。この人が望むものを、返すことはできない。
「疲れただろう。そろそろ休みなさい」
手を引かれ、部屋に誘導される。そこは白希の部屋で、白を基調としてるが……寒くて、とても暗かった。
端にあるベッドを示されたが、思わず後ずさる。
「白希?」
「……ここに独りで寝るんですか?」
宗一の袖をぎゅっと握り、後ろに隠れる。宗一は一瞬意味が分からず固まったが、すぐに笑った。
「私の部屋で寝るかい?」
足を引き摺る。スリッパが脱げそうになって、床につま先を落とした。
しばらく逡巡した後、白希は小さく頷いた。
ベッドサイドのスモールライトが灯る。
初めて嗅ぐシーツのにおい。なのに何故か心地良い。
大きな腕に抱かれ、胸に顔をうずめる。
我ながら何やってるんだか……呆れて仕方ないが、ひとりが嫌いだから、どうしようもない。
敵だとしても、騙されてるだけだとしても、孤独は嫌だ。息ができなくなる。
大我とも似たようなことがあったけど、この人のことが嫌いなわけじゃないんだ。憎いわけでもない。ただ、どう接したらいいのか分からないだけで。
「暗いところが怖い?」
宗一はシーツを引き上げ、白希の首元までかけた。
彼の言葉で、急に思い出してしまった。
祖母が病で亡くなった時。あの夜から、夜と孤独が怖くて仕方なくなった。
宗一のシャツを、痛いぐらい握り締める。
「怖い……」
部屋の中に冷気が立ち込める。布団の中に入れてるはずの素足も冷たくて、視界がぼやける。
寒くて震えそうになったとき、優しく頭を撫でられた。
「怖くない怖くない。……大丈夫だよ」
白希を安心させるように、繰り返し囁く。
たったそれだけのことで、強ばった体が弛緩していく。
この言葉も、初めて聞いた気がしない。
部屋の空気は徐々に上がっていったが、宗一に寒くないか訊こうと思った。
でもそれを訊くのも妙に勇気がいる。悶々と悩んでいる間に強い眠気に襲われ、意識はゆっくり閉ざされた。
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