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第3話

「秋吉」  今日初めて視線が合う。眼鏡の奥の瞳は、すがるような、ひどく必死な光を浮かべていた。 「四月から、留学するのか」 「は?」  頭が空白になった。え。何の話だ。  俺のその反応を見てどう思ったのか、先生は同じ表情で小さく頷いた。 「分かっている。君は優秀だ。若い時期に広い世界を見ることは、プラスにしかならない。秋吉が留学をしたいのなら、私は喜んで送り出す――つもりだ」  話がまったく見えない。ぱちぱちと瞬くことしかできない俺に構わず、先生の言葉は続く。 「手続きは進んでいるのか」 「へ?」 「ビザの取得や、語学試験のスコア送付は済んでいるのかと聞いている。秋吉ならそのあたりは既に手配済みだとは思うが」  やけに落ち着いた声。でも眼鏡の奥の瞳は普段よりもずっと鋭くて――いや、違う。鋭いんじゃなくて、焦ってる? 「志望先はアメリカか? それともドイツあたりか。研究テーマからいって、スミス教授のラボか、ヘルツェン研究所が妥当かと思うが」 「……あ、あの。先生?」 「私にも何人か知り合いがいる。研究分野は少し違うが、紹介状ぐらいは書けるだろう。もし秋吉が嫌でなければ、フォローを頼んでもいい。志望先の国を教えてもらえればすぐにでも連絡をとって――」 「ちょ、ちょっと待って先生!」  さすがに俺も口を挟んだ。声がうわずる。 「ほんとに、なんの話っすかそれ……!? 俺、どこにも行かないですよ!」  先生の口がぽかんと半開きのままで止まった。あ。かわいい。 「――行かない?」 「行きません」  こくり、と頷く。  俺を見上げたまま、先生の肩の線が下がった。俯いて、また眼鏡の位置を直す。 「そうか」  静かな、でも深い一言。  ――これって、ひょっとして。 「……俺が留学するかもしれない、って思って眠れなかったんですか?」 「――……」  先生は答えず、急に立ち上がった。まるで俺の視線から逃れるように後ろも見ずにさっさと棚を回り込み、学生のデスクが並ぶエリアへ歩いて行く。  いつも冷静な先生が、俺のことでこんなに取り乱してるなんて。嬉しいような、申し訳ないような、複雑な気持ちが胸の中でぐるぐる回る中、俺は慌てて後を追いかけた。 「てか、俺が四月から留学するなんて、どこから聞いた話ですか?」  そんな話、誰かとしたっけ?  学生エリアの片隅に設けられた給湯スペースで、先生は、いつもより時間をかけて自分のタンブラーに湯を注いでいた。ちらりと俺に視線を向ける。 「高瀬先生がそう言っていた」  その言葉で思い出した。前に雑談してたとき、そんな話がちょっと出たっけ。でも四月からなんてとんでもない。 「先生、それたぶん高瀬先生が盛っただけですよ。俺、確かに将来的にはそれもアリかもって言っただけで」 「盛った……?」  先生が訝しそうに眉を寄せる。意味がわかってないのかも。語彙的に理解できないっていうか、たぶん、『話を盛る』って行為自体が想定外なんだろうな。  俺は苦笑いしながら頷いた。 「高瀬先生ならそういうことしますって。なんでかはわかんないけど」  わかんないよな? ん?  言いながら違和感。なんで、俺が四月から留学する、なんて嘘をわざわざ先生に?  高瀬先生の、いたずらっ子みたいな笑みが脳裏にひらめく。  ――もしかして。俺と先生を、くっつけようとして、わざと?  答えに届きそうになった瞬間、先生が黙ったままタンブラーのフタを閉め、くるりと背を向けて自分のデスクへ戻っていった。俺も慌てて後を追う。ガキみたいにくっついてまわってるな、俺。  まあいいや。とりあえず高瀬先生はまた今度問い詰めることにしよう。

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