5 / 6

第5話

 先生の顔がぱっと上がる。眼鏡の奥から、キレイな切れ長の瞳が俺をまっすぐに見上げた。 「――……」  沈黙。  あれ? なんで? 俺、なんか間違ったこと言った? やっぱり昨日のは夢だった?  俺の不安がピークに達したのと同時に、先生が静かに口を開いた。 「別れよう」 「はあ!?」  思わず叫んでしまった。ショックとか悲しいとかより、先生の言ってることが全然理解できない。なんで俺、恋人になった翌日に早速フラれてんの?? 「別れるわけないでしょ! どうしたんすか、先生。俺と連絡先交換するの、そんなにイヤ?」 「そうじゃない」 「じゃあ、なんで?」  聞き返すと、先生はまた俯いた。  俺は見逃さなかった。キレイな瞳が、泣きそうになってた。ますます意味がわからない。けど、とにかくちゃんと話を聞かなきゃ。  先生の横に膝をついて、顔を覗き込む。先生は慌てて顔を背けようとしたけど、俺は許さなかった。  そっと頬を包み込む。すると、白かったそこが俺の掌の中でほんのり色付いた。うわ。かわいい。けど、そんなのんきなこと思ってる場合じゃない。  先生の瞳はやっぱり泣きそうだった。今にも涙が零れそうなくらい。 「俺のこと、イヤになった?」  ゆっくり問いかけると、先生は、俺の手ごと小さく頭を横に振った。予想どおりだ。じゃあ、可能性はもうひとつ。 「……自分がイヤになった?」 「――……」  レンズの奥で、先生は静かに目を閉じた。睫毛長いなあ、なんて見惚れてたら、切れ上がった目尻から雫が零れた。胸を衝かれる。そっと指を伸ばして、頬に伝った痕を拭う。されるがまま、俺の好きなようにさせてくれながら、先生は小さく唇を開いた。 「さっきの、留学の件」 「はい」 「秋吉が留学しないと聞いて、私は、安心してしまった。――だから、別れよう」 「いやいやいや」  接続詞の使い方がおかしい。なんでその二つの文が「だから」でつながるんだ。 「実際、誤解だったじゃないですか。安心していいんですよ」 「――もし誤解じゃなかったら?」  再び開いた瞳は涙で濡れて、吸い込まれそうなほどキレイだった。  先生の手が、頬に触れた俺の指を包んだ。きゅ、と握り込まれて鼓動が跳ねる。 「きっと私は、喜んで送り出すことなどできない。教員失格だ。だから」  そうか、そこで「だから」なのか。やっと理解できた。おかしくて、安心して、愛おしくて。複雑な気持ちが混じり合って自然と笑みがこぼれる。 「俺は、留学なんかしたくないんですって」 「……それはもうわかった」 「わかってないです。俺、留学するより、先生のそばにいたいって言ってるんですよ?」  先生が大きく目を見開いた。 「確かに、将来のためにはすぐにでも留学したほうがいいのかもしれないですけど。でも――俺が行かないって言ってるのに、先生が落ち込んでたら、俺、悲しいです」  薄く開いた先生の唇が、微かに震える。何かを言おうとして止め、引き結ばれる。また先生の目から雫が零れる。  胸がいっぱいになる。これだけのことで、こんなにも悩んでくれるなんて。いけないって思うけど、――愛されてるって実感できて、どうしても俺の表情は緩んでしまう。  頬に触れた手を滑らせて、そっと抱き締める。顔が見えなくなるけど。  おずおずと背に回される手。昨夜と同じだ。 「すまなかった」  そのまましばらく経って、小さく、先生の声が聞こえた。 「別れない?」  念を押す声は、どうしても笑ってしまう。先生の動きがほんの少し止まる。 「――別れない」  生真面目に言いながら身体を離した先生の顔は、いつもどおり冷静さを取り戻していた。まだ少し涙の痕が残ってるけど。  ていうかここ、先生の研究室だった。すっかり忘れてた。  誰も来なくてよかった、と思いながら立ち上がる。 「じゃあ。あらためて、もう一回話戻します」  そして、わざと重々しく咳払いをした。 「今度こそ俺の言うとおりにしてもらいます! はい先生、スマホ出して!」  先生は、さすがにもう何も言わず、おとなしく俺にスマホを差し出してくれた。

ともだちにシェアしよう!