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律と一楓 「自覚」
「律、今日は母さん夜勤だから夕食はカレー食べてね」
「はいはい」
「大学やバイトのない日くらいはゆっくりしなさいよ。じゃ行ってくるから」
「わかってるって、行ってらー」
介護施設で働く母親を玄関まで見送ると、律は早々と居間に登場したコタツに潜り込んだ。
ふと時計に目をやると、六時を指している。そのまま目をスライドさせてコタツを見ると、沈黙したままほスマホが目に入る。
いつもなら、電話だのラインだのと騒がしいのに、門叶と再会した日以来、湊から音沙汰はない。
畳の上に寝転び、座布団を二つ折りにして枕がわりにすると天井のシミに目を見つめた。考え事するときの癖は、子どものころから変わっていない。
あの時死んでたら楽だったのか……と、これまでも何度も同じことを考え、馬鹿だなと、何度もかき消してきた。
両手で瞼を覆うと、大好きな笑顔がよみがえって目頭が熱くなる。
甘くて淡い恋心を律が自覚したのは、冷たい雨が降る中二のある放課後だった──。
***
「律、今日は弓道場に行く?」
静謐な空間に、柔らかくて耳心地のいい小声で一楓が聞いてきた。
昼前から降り出した雨で部活は休みになり、空いた時間を来週から始まる、二年最後のテスト勉強にあてがおうと、律は一楓と図書室で過ごしていた。
「行くよ。今日サッカー部の練習が最後だったのに、雨で出来なくなったからなぁ。体がなまるっ」
「テスト終わったらまた出来るじゃない」
「一楓分かってないなぁ、三年になったらすぐ引退なんだぞ。それに受験……憂うつだぁー」
国語の本に突っ伏し、律は大袈裟に嘆いて見せる。
「律は頭がいいから、どの高校でも大丈夫だよ」
「全然ダメだ。俺、数学は好きだけど国語とかよくわかんねーし。だからこうやって図書委員の仕事邪魔して、一楓に教えて貰ってるんだからさ」
「委員の仕事って言っても、あまりする事ないんだ。本の貸出しと整理整頓くらいだから平気だよ」
嫋 やかな笑顔で頬杖をつく一楓の眼差しを受けながら、ここ最近自覚している鼓動の速度に律は戸惑っていた。
意識すればするほど、心臓が意志を持って勝手に暴れそうになる。
「勉強中ごめんね、村上君。探して欲しい本があるんだけど」
「あ、うん平気。何て本?」
女生徒に声をかけられ、律に手で合図しながら去って行く背中を見送ると、骨が軋むほど伸びと一緒に欠伸をした。
冬空を駆け巡る冷気とは逆に、図書室の中は心地よい温度が保たれ、古書からはノスタルジックな香りが漂っている。
何とも言えない居心地の良さに、重力と戦っていた律の瞼はとうとう敗北した。
「律、お待たせ」
一楓が席に戻ってくると、奥二重の瞼は閉じられており、教科書を枕に気持ちよさそうに寝息をたてている。
「律──寝ちゃってる?」
椅子の音を立てないよう、一楓はそっと座った。
「もしもし、律くーん」と、ふざけて声をかけてみても、無防備に眠る双眸は開かれる気配がない。
「りつ……」
明確な何かを欲するように呟いた名前さえも罪のように思え、一楓はすぐに唇を引き結んだ。
密かに抱いている想いを毎日ひた隠し、見つめるだけに留めてきた。けれど本人を前にすると、その決意はいつも脆く崩れそうになる。
寝顔を見つめる景色の向こうでは、生徒達が早々に帰り支度をして図書室を後にしていた。それもそのはず、鈍色の空はいつの間にか藍色に染まろうとしている。おまけに冷たそうな雨が激しく窓を打ち付けていた。
誰かが扉を閉める音を最後に、図書室は二人きりの世界になった。
一楓は自分の目の前で、規則正しく体を上下させている律を見つめていた。
人気者の律を独り占め出来る瞬間は何ごとにも代え難く、一楓はそっと眠る肩に触れてみた。
学ランの布がもどかしくて、指先を柔らかな黒髪へと伸ばしてみる。
初めて触れる感触に心が震え、それでも欲情に抗えず、机の上に伸びた細い指先をそっと摘んでみた。
僅かな面積ですら鼓動を早め、体を熱くさせる。
「うーん……」
学ランの肩が動き、律があくびをしながら頭をもたげた。
「おはよ」
「あれ? 俺……寝てた?」
「思いっきり爆睡してたよ」
寝ぼけてヨダレを気にする律に、禁忌を侵した後ろめたさを隠すよう、一楓は冗談めかしに言った。
「マジかぁ。ヤバいな、全然頭に入ってないや」
教科書を捲りながら、律が髪をかきむしっている。その様子から密事がバレていないと、ホッと胸を撫で下ろした。
「大丈夫だよ、国語はラストだし。ここの範囲の漢字を家でしっかり覚えて」
本を捲る一楓の顔に切れ長の目が同じように覗き込み、「どこ?」と、低音の声が耳を刺激してくる。
距離が近い。
耳朶が焦げ付くように熱い。
勝手に騒ぎ出す心音がうるさくて耐えきれず、一楓は勢いよくその場で立ち上がってしまった。
「な、なんだよ、急に立って」
「な、何でもないよ。傘、忘れてなかったかなぁって……」
そこにあるじゃん、と律の長い指が椅子に寄りかかる傘を指した。最上級な微笑みのおまけ付きで。
「あ……うん。あ、あのさ、律──」「あ、そうだ!」
二人の言葉が同時に重なり、座席を譲る素振りで、先に言えよと律に言われた。
一楓もお先にどうぞ、と負けじと返してみる。微笑ましい譲り合いを何度か繰り返してから「律が先に話して」と、最後はちょっと頑固な一楓の性格が勝り、話を切り出す順番を律に譲った。
この優しい掛け合いは今日で何回目かな。
一楓は胸の奥で指を折り、数えきれないやと、ささやかな交わりの嬉しさを噛み締めながら律の話に耳を傾けた。
「あのさ、今度、俺ん家来ないかなーって」
予想していなかった言葉に、目を見開いた。
「あ、無理しなくていいよ、妹のこともあるし。でも俺、お前を家に呼びたいなって思ったからさ」
凛とした顔が崩れ、照れくさそうに話す、隙だらけの律を前にして、さっきよりも体温が上昇していくのが自分でも分かった。
律にとっては遊びの誘いでも、好きな人の家に行くことは一楓にとっては一大イベントだ。
「ごめん、無理ならいいんだ」
誘い文句の余韻に浸っていると反故 されそうになり、一楓は慌てて首を左右に振って、「行きたい!」と叫んでいた。
「マジで? あ、でも、妹は……」
「大丈夫、少しくらいなら。従兄弟もいるし」
一瞬妹の顔がよぎったけれど、一楓の答えは決まっていた。
「ごめん……お前、優しいから断れなかったんだろ? だけど俺、嬉しいんだ。妹に寂しい思いさせるかもしんないけどさ」
カバンに手をかけたまま視線を落とす律に、一楓はひとたび首が千切れるくらい左右に振った。
「俺も嬉しい。友達の家に行くのなんてすごく久しぶりなんだ」
律の、そっかと言った微笑みが眩しすぎて、身勝手な気持ちが恥ずかしくなる。
一楓は窓に視線を逃がし、「雨、結構振ってきたね」と話を逸らした。
「だな。暗くなってきたし、これ以上酷くなる前に帰ろうぜ」
雨に濡れた瞑色 の空を気にし、手早く支度を済ませて扉を閉めると、二人は下駄箱へと向かった。
「ねえ律、ちょっとだけ弓道見に言ってもいいかな?」
上靴を下駄箱に片しながら、一楓は横顔に問いかけてみた。
「いいけど……いや、やっぱ今日はやめとけ。雨まじでヤバそうだ。それにもう外暗いし」
「そっか……。うん、じゃまた今度にするよ」
放課後はサッカーに明け暮れ、弓道は夜間や部活のない日に公民館へ通っていると聞いていた。だからこそ、今日のような学校帰りに律の勇姿を見るのは一楓にとっては貴重なことだった。けれど律の言う通り、雨足は更に酷くなり、しとどに二人の運動靴を濡らしていった。
傘越しに聞く雨音の中、たわいもない会話をしていると、あっと言う間に別れ道に差し掛かった。
慣れた通学路でも、律と別れを告げる瞬間は全然慣れない。また学校で会えると分かっていても。
「じゃ、道場こっちだから」
「うん、頑張って」
「一楓も風邪ひくなよ。今日はありがとな」
手を振る代わりに傘を空にかかげ、律が小走りで雨の中を去って行く。
後ろ姿を名残惜しそうに見つめながら、一楓は伝えたかった言葉を唇に乗せた。
「もう少し一緒にいたかったな……」
***
激しく踏みつける路面の水音は、角を曲がったところで足の勢いを緩めると大人しくなった。
短い白息を繰り返し、律は前のめりになった体を膝に預けながら、自分の態度がおかしくなかったかと自問自答した。
背中に一楓の視線を感じながらも、照れ臭くて振り返ることが出来ず、急ぐフリをして走り去ってしまった。
息遣いは元に戻っても、胸に当てた手のひらから鼓動が乱れているのが伝わってくる。
ふと、指先に視線を落とすと、触れられた箇所が火傷したように熱い。空気は冷え冷えとしているのに、全身も風邪を引いたみたいに熱っぽく感じる。
温もりがまだそこに残っているように感じた律は、反対の手で閉じ込めるように指を包み込んだ。
初めは肩だった。次は髪、そして指先──。
経験したことのない高揚感が脊髄を刺激してくる。心臓が猛然と騒ぎたてると体が拒絶反応するかのよう、雨の中で立ち竦んだまま、律は自分の中で芽生えている感情に戸惑っていた。
あいつも俺も男だぞ……。
友達として自分の家に誘った。それなのに、心のどこかで別の感情を持つ自分が、一楓の返事に心を踊らせていた。
一楓の行動。そこに付随する自分の感情を確かめるよう、雨足が酷くなっていく鈍色の世界で律は傘にぶつかる雨音を聞いていた。
京都で初めて一楓の存在を知ってから、源泉を掘り起こしたかのように、自分の中で温かいものが湧き出てくる感覚。
それが何なのか、どんな名前なのか、もしかしたら、気付いていないフリをしていたのかもしれない。
理由はただひとつ。二人とも男だからだ。
激しく雨が打ち付ける靴先を見ながら、律はゆっくりと|歩《ほ》を進めた。
いくら正論を唱えても、心がどうしても欲しいと、触れたいと、一楓を求めている。
だから律は想像してみた、一楓が誰かと付き合うことを。自分以外の人間に一楓が微笑み、口づけることを
嫌だ。絶対に嫌だ──。
一歩、一歩と足を踏み込むたびに、感情が確信に変わっていく。
一楓の隣にいるのは自分だ。もっと笑顔を見たいし、抱き締めたい。そして一楓も同じように求めて欲しい。
自分以外の人間が一楓に声をかけ、体に触れているのを目にする度に、独占欲が湧いていた。
反対に優しく微笑まれると、空でも飛べるんじゃないかと思えるほど浮かれた。
激しく雨が降る中、律は濡れるのも構わずに思いっきり走った。
雨粒が全身に打ちつけてくるし、空気も冷たい。それでも体や心は、発酵するほど熱を帯びていた。
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