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律と一楓 「独占欲」

 図書室での一件以来、律は一楓の白い肌に触れることを想像し、夢の中でも起きていても、腹の底で疼く欲情に翻弄されていた。  いけないと思いながらも、一楓がこっそりと触れてくれたことを思い出しては、何度も自慰に耽ってしまった。  一楓の顔を見ると、申し訳ない気持ちと後ろめたさで反省はしたけれど、自覚した気持ちを押さえることは無理だった。  その挙句、眠れない夜を味わい、一楓が家に遊びに来る日を指折り数え、カレンダーを毎日確認していた。  そうしてとうとう、念願の日がやって来たのだ。 「一楓、今日晩飯食って帰るだろ? 母さんがカレー食い切れないくらい作ったんだ」 「うん。食べる、ありがと」  初めて家に来て、わかりやすいくらいに一楓は緊張していた。それでもゲームや漫画の話題で次第に気持ちはほぐれ、数分後にはいつもの屈託のない笑顔を見せてくれた。 「律ー、母さん仕事に行ってくるね」  居間でテレビゲームに釘付けの律に、母親が慌ただしく身支度をしながら声をかけた。 「おー。行ってらー」 「何その挨拶! これから働きに行く親に言うセリフ?」  律の頭を軽く叩くと、母親は早々に玄関へと向かった。 「痛ってー」  自分の頭を労いながら、律は渋々腰を上げて玄関まで母を見送る。  幼い頃に父親を亡くした、二人家族のささやかで大切なルールだ。 「そんなの痛くないでしょ。一楓君、カレー沢山食べてね。お口に合うといいんだけど」  靴を履きながら母親が一楓に声をかけた。 「ありがとうございます、おばさんのカレー楽しみです」 「もう、なんて可愛いの。律、あんたも見習いなさいっ」  はいはいと、軽口で母親を見送り、そそくさとコタツへ戻った律はコントローラーを手に、まだ玄関にいる一楓に「おーい、続きやろうぜ」と、呼びかけた。  ゲームを満喫し、満腹までカレーを堪能した律は、後片付けをする手を止めて時間を気にした。  時計の針はもう、九時を指そうとしている……。 「一楓。その……家は大丈夫か? 妹とか──」  まだ一緒にいたい気持ちと痩せ我慢を隠しながら、皿を拭く横顔に聞いてみた。 「今日は大丈夫なんだ。九州からおばさんと従姉妹が来てて、美羽……妹は一緒にホテルに泊まるんだよ」 「へえ、そうなんだ。それは嬉しいだろうな」  露骨に安堵した顔になり、ココア飲むだろ、と鼻歌混じりに牛乳を温めた。  あからさまに喜ぶな、嬉しいのは自分のくせに、と自分自身に説教した。  二人っきりの家族で兄妹なんだと知っているくせに、と……。  甘い湯気が立ち込めるカップを二つ手にし、コタツまで運ぶと一楓が嬉しそうな顔で受け取ってくれる。 「美味しそう。でも、これ飲んだら帰るから」  ──帰る……。この三文字はこんなにも寂しい言葉だったのか。  寂寥感を隠しながら、律は送ってやるからな、とギリギリの笑顔を作った。 「一人でも平気だよ、寒いから律が風邪ひいたら困る──あ、アッチッ!」  カップを持とうとした手を一楓が見誤り、コタツの上がココア色に染まった。 「大丈夫か!」  咄嗟に一楓の手を掴み、火傷の心配をした。初めて握った手は想像以上に小さく華奢で、頼りなげな手をそのままギュッと握り締めたくなった。あまりの儚さに一楓の顔を見つめると、戸惑う瞳は逸らされ、律の手も振り払われてしまった。 「だ、大丈夫。ごめん、汚した……」  行き場を失った手を空中に残したまま、律は紅く染まる頬を隠すように俯く一楓を直視した。  下を向くとうなじが露わになり、隠れていた肌が湯上がりのように桃花色に染まっている。   一度見てしまうと、もう、そこから目が離せなくなった。 「や、やっぱ、俺もう帰る」  上着を掴んだ一楓が廊下へと飛び出した。   反射的に去って行く腕を掴んだ律は、勢いよく体を引き寄せ過ぎてバランスを崩し、一楓の背中を抱き締めたまま、後ろへと転倒してしまった。  倒れてくる一楓を全身で受け止めた律の頭は廊下に直撃し、鈍い音を放った。 「りつ! 律! 大丈夫?」  心配して差し出された手を、今度は逃さないようしっかり掴み、後頭部の痛みを堪えて自分の体の上に小さな一楓を重ねた。 「律、どうしたの? どっか痛いのか!」  心配してくれる声を聞くとたまらなくなり、腕の中にある一楓の体を思いっきり抱き締めると、一楓の髪に顔を埋めるように自分の顔をすり寄せた。 「律どう──」 「……なよ」 「え、何?」  拘束を解こうと一楓が身じろぐ。だが、律は力を緩めず、華奢な体を離すまいと、一楓の背中側を両手で掴んでいた。 「帰るな……」と再び耳元へ囁く。 「り──」  一楓の後頭部に手を回し、自分の方へ引き寄せると、唇同士をくっ付けた。  薄い背中に腕を添え、小さな体を縋るように引き寄せると、一楓の鼓動が律の中に一気に流れ込んできた。  初めての口付けはぎこちなく、真正面から挑んだものだから、鼻頭同士がぶつかってしまった。  心臓が口から飛び出すほど緊張していたけれど、考えるより先に呟いていた。 「一楓が……好きだ」  吹き溜まりにあった感情が巻き上がり、燻っていた欲望が言葉を後押ししてくれる。  律は冷えた廊下に背中を預けたまま、一楓の温もりをひたすら引き留めていると、見下ろしてくる瞳が、物言いたげに揺れているのを見つけた。  虹彩が潤み出し、白い頬が徐々に赤く染まっていくのも。 「ごめん、男に言われても気持ち悪いよな。でも京都で、初めて見た時から、俺はずっと──」  駆け足で想いを口にしたけれど、感情が先走って上手く言えない。律は告白を補うように一楓の頬にそっと触れてみた。  図書室で一楓がこっそりくれた、好きを表す仕草が律の告白の手助けをしていたから、この想いは届くと信じて迷いなく告げた。 「俺も……律が好き。ずっと、ずっ──んんっ」  打ち明けてくれた言葉が嬉し過ぎて、たまらず一楓を抱き寄せるとまた唇を合わせた。   もっと触れたくて、もっと欲しくて、今度はちゃんと角度を変えて重ねた。  想いを確かめるよう、何度も何度も蜜を味わった。  甘く柔らかな感触に溺れ、とどまることを忘れて夢中になっていると、不意に鼻の奥がむず痒くなり、律は堪えきれず豪快にくしゃみをしてしまった。  おかげで、甘い空気は一気に吹き飛んだ。 「ご、ごめん。俺、カッコ悪すぎるな」  お互いが同じ思いだった証が、一回のくしゃみで台無しだ。  情けない……と、手のひらで顔を隠そうとしたら、一楓に手首ごと奪われた。 「情けなくなんかないっ。カッコいい……よ。そ、それより律、風邪ひくから早くこたつに──」  細い指が心配げに頬を包み込んでくれたけれど、ささやかな仕草が愛おしすぎて、また口付けた。  際限なく求めてしまう自分を戒めると、律は立ち上がって一楓を引っ張り上げた。  ココアを作り直そうと、台所へ向かう律のパーカーが引き止められ、肩越しに振り返ると、不安そうな一楓が裾を掴んでいる。 「……いいの? 律。俺、男だし……律、モテる……し」  掴んでいる指が震えている。律はその手を自分の指で絡め取ると強く握った。 「俺だって男だ。それに、一楓が男でも女でも好きになったよ。性別は関係ない、お前だから好きになったんだ」  一楓の手を一段と強く握り、強さで想いを伝えようとした。 「……うん、ごめん、律」 「何で謝るんだ? それに『ごめん』じゃなくて『ありがとう』だろ。俺はありがとうだよ、一楓と出会えたんだから」 「律……」 「俺はずっと一楓と一緒にいたい。俺の願いを叶えてくれるのは一楓だけなんだ」  目に見えない気持ちを言葉で示し、一楓の指先を唇まで運んでそこへ口付けた。 「俺も……律と一緒にいたい、ずっと……」  最高に嬉しい言葉を言ってくれる一楓の虹彩は膨れ、あとからあとから雫が流れ落ちてくる。だから袖口で拭ってやった。 「律、ごめ──」 「ありがとう、だろ?」  一楓の不安を取り払うよう、律は表情筋を最大限に緩めた。 「あり……がと、律」  涙を溢すまいと、一楓が目をしょぼしょぼさせながら微笑んでいる。  可愛らしい表情に庇護欲を掻き立てられ、華奢な体を思いっきりまた抱き締めた。 「座って待ってろ、ココア作るから」  耳元で囁くと、返事の代わりに細い腕がたどたどしく背中に触れてくる。  嬉しさのあまり、採蜜する蜂のように一楓の髪に顔を埋めると、二つの体の隙間を埋めるよう、さっきよりも一段と強く抱き締めた。

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