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律と一楓 「それぞれの想い」

 吹きっ晒しの道場で律が白い息を吐き、眼差しは冷気を抑え込むほど、精悍な姿勢で的を捉えている。  ぶっ続けで二十射も弾いたからか、冬でも額に薄っすら汗が滲んでいるのが一楓の位置からでも見えた。  握り締めている手に自然と力が入り、息をひそめて律を見つめていた。  座布団の上に座っていても、冷え切った床は臀部(でんぶ)を痺れさせてくる。でも、弓道着姿の律からは目が離せない。  足踏みし、弓構えから打起こしする姿は神々しく、虜になってしまう。  冷えた空気を切り裂くよう、鋭い(あた)りの音が体を震わせ、刹那に一楓の心を貫く。  この瞬間、律はとびきり秀麗に見える。  一楓の一番好きな律だ。 「律、すごい! ど真ん中だよ」  的の中心で揺れている矢羽根を指差しながら、一楓は興奮で飛び跳ねた。 「やりー。やっぱ今日調子いいーな、俺」  得意顔からの崩れた笑顔。  少し幼い微笑みは、惜しみなく一楓に注がれる。それが何より嬉しい……。 「さすが弓道部の王子! かっこいい」 「何だよ王子って」 「だってみんな言ってるよ、律は王子だって。俺のクラスの女子なんて、律のクラスが体育んとき、真面に授業なんて聞いてないんだから」 「いやいや。それダメでしょ」  首筋を流れる汗にも魅了され、うっとりしてしまうのは自分だけではない。  そんなことは重重承知の上だ。  だからこそ、二人だけの時間はいっそう大切にしたい。 「おい、一楓。そんな色っぽい目で見んなよ、襲うぞ」  ニヤニヤしながら、悪戯な顔を見せてくる。 屈託のない笑顔から、高貴で大人っぽい表情。  律のどこをどう切り取っても、眉目秀麗と言う言葉しか出てこない。 「ここは区民が使う憩いの会館ですよ。その発言は、はしたないです、繪野君」  かけてもない眼鏡をクイッと上げる仕草をし、一楓は逸る鼓動を隠すよう揶揄して見せた。  だがそれが律の劣情を煽ったのか、袴を翻すと背中を手で添えられ、床にそっと寝かされてしまった。 「……な、何、律」 「あー、もうお前は可愛い過ぎ。頭のてっぺんから爪先まで可愛すぎる」  板張りから伝わる冷たさと反対に、体の表面には愛しい重みから熱が注がれてくる。  安寧と少しの昂りに浸りながらも、「外から見えるよ」と、道着を掴んで剥がそうとした。  射位(まとい)から的までは、三十メートル近く距離はある。  それでも道場の周りを囲っている金網は華奢で、中の様子を伺うことは容易な環境だ。  誰かが通れば見られるからと、一楓は腕を突っぱねて必死で訴えた。 「こんな寒い日に裏通りを誰も通らないって。今日だって道場貸し切りだったろ?」  言い訳する律の手が、シャツをたくし上げて肌を弄ってくる。 「り、律っ、ダメ」 「くそ、やりづれーな」  右手にはめた(ゆがけ)が不自由で、律はそれを口で器用に外した。 「だからダメ──」 「でた、一楓のダメダメ攻撃。そんなこと言う口は塞いでやる」  冷え切った一楓の唇に、律の熱が重なる。   濃厚で甘いお仕置きは角度を変えて何度も繰り返され、背中は冷えているのに、触れ合っている部分は熱に侵されていた。  強引な唇は息つく間も与えてくれず、慣れない息継ぎに切ない声がいやらしく変換されて漏れだす。  道着の胸元がはだけ、そこから花蜜が滴ると、香りに誘われた一楓はたまらず律の素肌に顔を埋めた。  とろとろに蕩けさせてくる逞しい躯体は、制服姿の何倍も美しくて色っぽい。 「俺、律の袴姿が一番好きだ……」  囁いて、律の首にしがみ付いた。 「……んな殺し文句、どこで覚えたんだよ」  一段と力強く抱き締められると、体を取り巻く骨がきしんで喜んでいる。  甘い痛みを感じる度に、一楓は胸の奥でたったひとつの願いを呟いていた。   この先もずっと、律の側にいられますように……と。         **** 「あー寒い。湊どっかで温ったかいもんでも飲もうぜ」  湊は手に息を吐きかけながら、亮介と大股で寒々とした景色の中を歩いていた。 「だな。でもテスト前だから勉強付き合えって、ちょっと会わない間にガラにもないこと言うよーになったな亮介。図書館なんて俺、初めて行ったわ」 「だろ? 俺は勉強の鬼になるんだっ」 「プッ! ブワッハッハー。お、鬼ってお前ウケるわー」  爆笑していたら亮介にひと睨みされた。  まだ冷やかしてやろうかと企んでいたら、「俺は変わるんだっ」と、凄まれた。 「もー、ほらー。亮介が殊勝なことを言うから雪降ってきたじゃん」  空からはらはらと舞い落ちる雪の欠片が、容赦なく剥き出しの肌を攻撃してくる。  本格的な冬の象徴を前にして、上着を着てこなかったのは失敗だったと反省した。 「いやいや、俺のせい? 自然現象でしょ、これ」  たわいもない話で寒さを紛らわせても、雪は鈍色に景色を染め上げようとしてくる。  ふと、気配を感じた湊が立ち止まる。  すぐ後ろを歩いていた亮介が、背中に激突してきた。  よそ見をしていたのか、思いっきり鼻をぶつけてしまったみたいだ。 「痛ってーな、いきなり止まんなよ湊」  鼻頭を撫でながら亮介が文句を言ってきても、湊は凍ったように動けない。 「おい、湊。ごめんなさいは?」  文句を言われても、肩が段々と白くなっていく湊の視線は遠くに置いたままだった。 「おい、聞いてんのか湊っ」  反応がない事に苛立ったのか、亮介に腕を掴まれ揺さぶられた。  その微かな振動で雪ははらはらと落下し、同時に湊は唇を動かした。 「……なあ。あれ、どう思う?」 「あれ? あれって──」  湊の視線を辿った亮介が、「あっ」と小さな声を漏らしている。  二人の目に映っていたのは、袴姿の律と一楓が仲睦まじくジャレ合っている姿だった。 「一楓……」 「と、リツ」  道場の床に転がる二人を凝視しながら、カタコトのような口調で湊は呟いた。  チラッと亮介を見ると、眉間にシワを刻んで遠くの二人を睨んでいる。  遠目にも二人の唇が触れ合っているのがわかり、それは一度、二度と繰り返され、二人の体が絡まると、甘い吐息まで聞こえて来そうに思えた。 「湊、お前──」  強引に肩を掴まれ、自然と亮介に視線を移すと、舞い降りた沫雪が頬で溶けて落ちた。 「な、泣いてるのか?」  溶けた雪が涙に見えたのか、亮介が一驚している。  すぐに違うと気づき、視線が再び律と一楓へ戻っていった。  カサつく亮介の唇は、無意識なのか、千切れるほど噛み締められていた。 「律……」  思わず呟いた名前は頼りな気で、雪の中へと弱々しく消えてしまった。  溢れた名前に反応したのか、亮介がジッとこっちを見てくる。 「湊、お前……繪野のこと本気……いや、なんでもないわ」  亮介の言いたいことはわかっている。  律への思いは、修学旅行から始まっていた。    初めて見た時、めちゃくちゃかっこいい男だと思った。  大人になったら今より、もっといい男になるだろうと予感した。  亮介から一楓のことを聞き、寄り添う二人がフラッシュバックすると、無性に一楓が憎らしく思えた。  自分だけがいい男を独り占めしているんだと言わんばかりに、律の横に立つことを許されている。  それをまざまざとこっちに見せつけているんじゃないかと、湊は思ってしまった。  だから二人の仲を、邪魔してやりたかった。壊したかった。  中学の三年間を過ごした場所に飽きてきたこともあり、外部受験までして二人に近づいた。  単なる暇つぶしだった。  それなのに、いつの間にか律に夢中になっていた。  一楓を亮介の餌食にしたくらい、律を自分のものに、自分だけの律にしたかった。  戯れを繰り返す二人に耐え切れなかったのか、亮介がツイっと視線を逸らし、「やっぱ邪魔だな……」と、抑揚のない呟きを漏らす。  吐き出された言葉に同調するよう、湊も二人を睨むように凝視した。  数秒、見つめた後、鼻を啜ると、「スタ○行こうぜ、寒すぎるわ」と、色褪せた笑顔で亮介を誘った。

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