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律と一楓 「不穏」

 濡れた手でシンクの縁を掴むと、一楓は体重を支えるようにそこへ縋った。  叔母と美羽が不在の間に、夕飯の準備をしようと台所に立った途端、倦怠感に襲われた。  熱っぽさを感じながら、包丁を握ってはみたが再び眩暈を覚え、一楓は台所でしゃがみこんでしまった。 「また風邪かな……。熱も少しあるかも」  ふと、医者の言葉が浮かんだとき、玄関の開く音が聞こえた。  刹那に、一楓の全身が硬直する。 「ただいま──って、あれ一楓だけ? 母さんは」  雨が降っていたのか、亮介が濡れて重そうなカバンをリビングに放り投げて言った。 「……おばさんは、さっき美羽と一緒に買い物に行ったよ」  冷蔵庫からペットボトルを取り出し、「ふーん」と意味深な返事の後、亮介が水を勢いよく喉に流し込んでいる。  その様子から視線を逸らすと、一楓はシンクへ向き直り、忙しさを装ってじゃがいもを手に取った。 「じゃ、今二人なんだな……」  亮介の言葉で剥きかけの芋をゴトリと落とし、全身が強張った。  じっとりとした視線を背中に感じ、恐る恐る振り返ってみると、口元の水滴を拭いながら亮介がすぐ後ろまで来ていた。  ジャージのファスナーを下げる音と、のやれよ、と不快な命令を下してくる。  手にしていた包丁を奪われ、肩と腰を掴まれると、強引に引き寄せられた瞬間、一楓は咄嗟に顔を逸らした。 「へー、無視するのか。律とはヤってたくせに」  言葉の意味が分からず、訝しげに亮介を見ると、顔が近付き耳朶をべろりと舐められた。 「ひっ。や、やめ──」 「区の道場で何してた。あんな丸見えのとこ──ああ、そうか。誰かに見て欲しかったのか」  淫靡(いんび)な声音で語られた言葉に瞠目し、おもいっきり亮介を跳ね退けた。  雪景色の中、弓道技姿の美しい律に抱き締められ、何度も口付けをした。  それをよりによって、亮介に見られていたとは。 「早くやれよ。この家に居たいんだろっ。ああ、そうだ。今日は最後までやるか。繪野は体がデカいからあっちも相当だろ。だったら慣れてるよな、お前のケツ穴」  下品な言い方に、思いっきり顔を歪めた。 「い、嫌だ。もうしたくないっ」  リビングへ逃げ込むと、クッションを掴んで盾にし、ソファの隙間へ身を寄せた。  狩猟本能を刺激された雄は、一楓の抵抗を楽しむようにジリジリと近づいてくる。  身を寄せた隙間から引っ張り出されると、思いっきりソファに抑え込まれた。そのまま覆いかぶさってきた亮介の胸にこぶしを叩きつけ、突っぱねようと抵抗してもびくともしない。  涼介に全体重をかけられると、一楓の体はソファと板挟みになって、逃げ場がなくなってしまった。  気怠い体で応戦しても息は切れ、両腕は亮介の片手で簡単に組み敷かれてしまった。  間髪入れずもう一方の手で顎を掴まれると、生ぬるい舌が口腔内に侵入してくる。  千切れるほど首を振って抵抗していると、リビングのドアが開き、反射的に振り返った亮介が慌てて一楓の体から飛び降りた。 「りょ、亮介君……何をしてるんだ」 「せ、せんせ……ど、どうして。今日カテキョの日じゃ──」  東郷の出現に驚き、亮介が動揺している隙に一楓はリビングの隅へと逃げ込んだ。 「今日、夕飯に呼ばれたんだ。けど、チャイム鳴らしても誰も出ないし、鍵開いてたから……」 「ふ、不法侵入かよ!」  顔を真っ赤にして虚勢を張る亮介は、逃げるように自室へと走り去って行った。  近づいて来る東郷に一楓が警戒していると、彼は着ていたパーカーを脱いで肩にかけてくれた。 「君……イブキ君? 大丈夫かい?」  優しい声で問われた瞬間、目の端で踏み止まっていた涙が溢れた。  膝を抱えて蹲っている自分の視線に合わせてくれると、「大丈夫、誰にも言わないよ」と、慰めるように頭を撫でてくれた。 「あ、ありが……とうござい……ます」  精一杯の声に対し、「亮介君には俺から話すから」と言い残し、東郷は二階へと向かった。          ****  高校二年の二学期も後半になると、進路のことで教室全体が沈鬱になっている。  そんな鬱屈した空気を払拭するのは、学祭の準備だった。  遅くまで学校に残っていると妙な一体感が湧き、テンションが上がって胸が高鳴る──と、律も数分前までは思っていた。  初冬の冷たい風を浴びながら、律は今、全速力で走っている。  寒空の下を一楓がひとり帰る姿を想像するだけで、胸が押し潰されそうだった。  学祭の準備中に一楓が昏倒したと聞いたのは、律が体育館で作業を終えて教室に戻った直後だった。  横っ腹に激痛を抱えながら、短い息を繰り返して慣れた道を進むと、薄闇の中に華奢な輪郭を見つけた。  一楓まであと数歩のところで、律は足を止めた。  立ち止まっている一楓が、どこか一点を見つめていたからだ。  月明かりに浮かぶその横顔は、金網の向こう側へと向けられている。 「いぶきっ」  律は駆け寄りながら名前を叫んだ。 「律……。ごめん、俺また心配かけたんだな」  一楓が顔を見るなり、申し訳なさ気に睫毛を伏せた。 「謝るな。それより平気か」 「うん……」 「びっくりしたよ、倒れたって聞いたからさ」  強引に家まで送ると言い張ると、律は自分のマフラーを寒そうな細い首に巻いてやりながら、何でさっき弓道場を見てたんだと、尋ねた。 「思い出してたんだ」 「何を?」 「律を初めて見た日のこと」  一楓の歩く速度に合わせていた律の足が止まった。  初めて? それっていつのことだ……。 「本当はね、この街に来た日、道場で律を見たのが初めてなんだ」 「マ、マジで?」 「うん、矢が的に当たる音が聞こえてさ。俺、弓道って見たことなかったから、感動したんだ」 「そうなんだ! 何だよ、言ってくれればよかったのに」 「だって……俺、その時から律のことが気になってたから……」  予想してなかった告白に、顔が急激に熱くなる。 「お、お前……いや、気になったって……。へへ」  嬉しすぎて表情筋が解けると、顔がだらしなく緩んでいるのが自分でもわかった。 「あー、律がいやらしい顔してる」 「いや、だって、てっきり京都の時かと思ってたからさ」  恥ずかしくて言えなかったんだと、照れ臭そうに言う一楓は、秘めていた思いの続きを口にしてくれた。 「親が死んで悲しくて、でも妹がいるから凹んでる場合じゃなかったし……。そんな時ここで律を見つけたんだ。放たれた矢が颯爽とした音で的に当たって、見てて凄く晴れやかな気分になったんだ」 「恥ず……俺ヘマしてなかったかな」  鼻頭をかきながら言うと、返事の代わりに一楓が静かに微笑んでいた。 「的当ての側でガーベラが揺れててさ、矢の当たる音と一緒に俺を励ましてくれてるように思えたんだ」 「そっか、だから弓道やってるの知ってたんだな。でもすっげ嬉しい。一楓が俺を見つけてくれてて。でもそんな花なんて咲いてたっけ」 「安土(あづち)の側にね。9月にも咲いてたよ。俺あの花好きなんだ、母さんが庭で育ててたから」  寂しさを引き受けるよう、律は冷えた一楓の手を握り締めた。  お返しに一楓が微笑みを向けてくれる。  言葉にできない感情が、ジワッと胸に染み込んできた。  それはとても厳かで、温かくて、教会の鐘の音を聞いているような感覚だった。 「知らなかったな。でも知れて良かった。一楓の好きな花も、俺が弓道をしてたのを知ってたのも」  一楓の笑顔は律を幸せにしてくれる。心の中いっぱいに、陽だまりを注いでくれるように。  月凍(つきこお)る空の下を温もりを分け合いながら歩いていると、半田家の外灯が目に入り、二人の足は自然と速度が遅くなった。 「……弓道してる律が、一番かっこいいな」  隣に本人がいるのに、独り言のように一楓が言う。  誰よりも一楓にそう思われるのが嬉しくて、ありがとうの代わりに冷えた手をギュッと握った。  名残惜しそうに指を絡ませ、「明日……迎えに来ようか?」と、聞いた。  一楓が心配なのはもちろんだけれど、少しでも一緒にいたかった。  けれど返ってきた言葉は、「平気だよ」と、微笑みだった。  それ以上言えなくなって、そっか……と、律も微笑んで返した。 「学祭は来週なんだし、あんま無理すんなよ」 「大丈夫だよ。遅くなるから律もう行って」  真っ赤な鼻頭の一楓が別れを切り出す。  早く解放しないと、具合が悪いのに風邪まで引いたら学祭どころじゃない。  分かっているけれど、もう少し側にいたかった。  離れ難い気持ちを手に込め、「わかった。じゃまた明日な」と、最後の指先をゆっくりと離す。 「おやすみ、りつ」  手を振って見送ってくれる姿を、名残惜しそうに何度も振り返りなごら、律はちぎれるほど手を振った。

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