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律と一楓 「条件」

 大好きな弓道もやめて、学校が終わるとバイトに行ってしまう律と違い、湊は今日も、時間潰しのための部活に顔を出した。  せっかく律を独り占めできるのに、肝心の本人がいないと外部受験した意味がない。  嫌々参加した態度は先輩の怒りを買い、部室の掃除を言い渡されてしまった。  適当な掃除の途中、モップに体を預けたまま、頭の中ではずっと同じことを考えていた。  律を独り占めする一楓が妬ましい。  病気なのは気の毒だと思う。  けど、一楓から律を奪いたい——。  偽善、気まぐれ、体裁。  そんな気持ちで何度か見舞いへ行ったけれど、いつも会わずに帰った。  恋敵を労う自分はらしくない。  それは亮介も同じ──いや、あいつとはちょっと違うのか。  そもそも亮介は一楓の身内だ。  従兄弟で同じ家に住んでいるから、家族の手前、顔を見に行っている程度だろう。   「あの話をしないとな。でも律、困るだろーな……。病院を出てけなんて、酷だよな、ウチの親は」  おざなりな掃除を終え、部室の鍵を閉めながら湊は溜息を吐いた。  毎日がつまらない。  律が側にいないのがこんなに堪えるとは、自分でも驚きだ。  靴底を擦るようダラダラと歩き、駐輪場に着くと、湊の自転車以外はずっと放置されている年季ものが明滅を浴びていた。  気怠そうに自転車を押しながら、学校の門を出たところで、血相を変えた律と出くわす。  短い息を繰り返し、闇の中に佇んでいた。 「律、どうし——」 「み、湊……、お前知ってたのか?」  乱れた息の律に両肩を掴まれ、湊は自転車ごと後退りした。  律の手から震えが伝わってくる。 「律、お前震えて——」 「一楓が病院を追い出されるって本当か!」  見たことのない形相の律にたじろぎながらも、「ああ、そのこと」と、わざと何でもない顔をして言った。 「やっぱ、知ってたんだなっ。さっき病院に行ったら看護師に言われたんだ。どうしてなんだ? ずっと入院させてくれるんじゃなかったのか……」 「律——」 「頼む、湊! 俺なんでもするから一楓を病院から追い出さないでくれ」  冷たいアスファルトの上に崩れるように、律が膝をついている。  声も体も震わせ、おまけに泣いて鼻水まで流している。  薄くてエロい唇からは、短い言葉を何度も何度も繰り返し、地面に吐き出していた。  頼む、頼む……と。  掠れた声が尽きると、湊の好きな美しい顔は、あらゆる水分でぐちゃぐちゃになっていた。  それでも構わず懇願を続け、再び地面に平伏す美しい男……。  秀麗で凛々しい姿は微塵もなく、恥も外聞も捨てたのか、湊の足に縋りつく姿は惨めで非力な人間に成り下がっていた。  それでも湊は好きだと、この男が大好きだと思っていた。    律には俺が必要なんだ……。  突如、これまで知らなかった庇護欲が沸き上がり、不条理な考えまでもが芽生えた。  湊は自転車を固定させると、律の視線に合わせるように屈んで、自分の唇を律の耳元へとそっと寄せた。 「律、俺のじいちゃんが死んだんだ」  言葉の意味がわかっていないのか、困惑する律に、追い討ちをかけるように湊はもう一度唇を動かす。 「じいちゃんが死んだんだ、意味わかる? 俺の頼みを何でも聞いてくれる人はもういないんだよ」 「それは——」 「わかんない? 今は実質、父さんが理事長になったけど、権限はひとり娘だった母さんにある。父さんは婿養子だからね」 「それと一楓が出て行くのは——」 「律、あのさ。格安で個室を占領している患者は、病院にとっては損失なんだよ」 「そ、そんな……」 「頭いいから律は理解できるよね? それに一楓はこの先も、高額な手術も化学療法もする予定はない。病院の利益にもならず、ただ、だらだら貴重な個室を占領するだけだ。タダ同然の料金でね」  茫然自失になっている男の涙を指で掬いながら、自分の言葉で壊れてゆく姿に、体の芯が疼く。  興奮してアソコまでが反応していた。  愛しい男を自分だけのものにしたい。  湊の頭の中には、その言葉ばかりが渦巻いていた。 「……病院を出たら、一楓はどうなる……」  四つん這いになったままの律を冷めた目で見ながら、「さあ」とワザと素っ気なく言い、湊は顔を背けた。 「——っお前!」  軽々しく言ったからか、律が怒りに任せて胸ぐらを掴んでくる。  律の鋭い眼光を浴びると、下腹部がズクんと反応した。  怒りで満ち溢れている顔もたまらない。  自分はMっ気でもあったのかと、馬鹿なことを考えていたら可笑しくなってきた。 「気に障ったなら謝るよ。でもいいの? 俺にこんなことして」  掴まれている手を一瞥し、律の視線と交互に見てやる。  自分の言葉ひとつで、美しい男は思い通りになるのが分かるとゾクゾクしてきた。 「悪い……。でもせめて……少しでも状態が良くなるまでは病院にいさせてくれないか」  再び律が冷たいアスファルトに膝を付けた。  あいつのために土下座までするんだ……。  小さく丸まった背中に苛立ち、「やめろよ、みっともない!」と、罵倒していた。  文武両道で眉目秀麗。  そんな男が、今、自分の足元に蹲っている。  ズボンに埃を付け、涙と鼻水で美醜がないまぜになっている。  美しい男のなりふり構わないこの姿が、一楓ひとりのためなのだ。  それがわかってしまうことが、更に湊を苛立たせる。 「どうしたら……いいんだ? どうすれば、お前は助けてくれるん……だ」  気高さを失った肩に手を置くと、「助けて欲しいんだ」と、上唇を舐めた。  心なしか声が震えてしまう。 「……助けて……欲しい……」  してやったりの返事に喉が鳴る。  この男が欲しい、と細胞までもが叫んでいる。 「じゃあさ、俺が呼んだら何を置いてもすぐ来てくれるか?」 「どう言うことだ……」  湊の言葉が理解できないのか、律が顔をもたげて怪訝な表情になる。  二人の顔は、口付けができる程近くにあり、湊は無意識に生唾を呑んだ。 「言葉の通りだよ。で、取り敢えず、今から俺とセックスしてよ」  瞠目した律が、肩に乗っていた湊の腕を振り払い、冗談だろと、笑顔をひきつらせている。  動揺する律とは反対に、湊の心は小波のように凪ぎ、律から答えを引き出そうとしていた。 「さっき、何でもするって言ったよな。一楓とできて俺とは出来ない訳ないだろ。同じ男なんだし」 「お前……正気か?」 「俺さ、初めて律と会った時からお前に抱かれたかったんだ。俺はゲイだからね。なのにいつも一楓が側にいてお前を独占して、すっげぇ邪魔だったよ」 「一楓はダチだろ、なのに——」  自転車のスタンドを蹴り上げ、湊は「ダチじゃないっ」と言い放った。  静寂した濃紺の世界にガチャンと音が響き、律がビクッと体を強張らせる。 「一楓の未来は律の答え次第だよ。だからさっさとが決めて」  選択肢を律に委ね、湊は自転車に跨って返事を待った。  校庭の向こう側に見える校舎の一階、職員室だと思われる灯りが煌々としている。  そこにはまだ、教師が仕事をしていることが映像となって浮かんだ。  学校の側で生徒がこんな卑猥な駆け引きをしているなど、あの中にいる大人の誰が想像できるだろうか。  慨嘆(がいたん)した顔をする律が戸惑っている。  律が欲しい……。  でも断って欲しいとも思っている自分もいる。  友の顔をした自分と、恋慕を秘める自分がせめぎ合う。  気持ちにケリをつけようと「決めた?」と、湊が口火を切った。 「──や……」 「無理だろ。じゃ、この話はなかった事で。さあ帰ろう——」 「やるよ……」  言葉を遮るように律が答えた。  湊の心臓がぶるりと震える。 「マ、マジで言ってんの。セックスだよ。律、俺を抱けんの?」 「……ああ」 「ほ、本気で言ってんのか? 一楓を裏切るんだぞっ」  問いかけに頷く律に怒りを感じながらも、大好きな男に触れることを想像して体が熱くなる。 「本当に……いいんだな」  声と高揚をひそめ、相手を諭すような口調で確かめた。 「ああ……それで一楓が入院させてもらえる……なら」  律の承諾に後ろめたさを感じながらも、湊の想いは砂時計のように、心待ちする快感へとさらさらと滑り落ちていった。

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