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律と一楓 「一緒に桜を」

「一楓君、絶対に約束守ってよ! 一時間だけだからね。風邪ひいたら大変なんだからね」  車椅子に乗った完全防備の一楓に、看護師は五回目の念押しをしていた。 「わかってます、ちゃんと一時間で戻りますから。ね、律」 「すいません、無理言って。ちゃんと時間は守りますので」  律が深々と頭を下げた。 「もう、俺が我儘言ってるみたいじゃないか」  口を尖らす一楓の頬を優しく摘み、「そのとおりだろ」と甘く叱った。 「じゃ、行ってきます」  担当看護師に見送られ、一階までやって来た。  入院してから降りて来たのは初めてだなぁと、車椅子から落ちそうな勢いで前のめりに景色を見ている。 「危ないからちゃんと座れ。けど、そっか。いつもは部屋にいるか、天気のいい日に屋上へ散歩するだけだったもんな」 「うん、だからすっごく楽しみだ」  たわいもない話しをしながら、受付を通り過ぎると、目の前で自動ドアが開け放たれた。  春を前にしても風は冷たく、一楓の体を心配したけれど、帽子とマスクの間に見える双眸は輝いていた。  久しぶりの外気に、寒さより嬉しさが表情に現れている。喜ぶ姿を見て、律も心が少し軽くなった。  つるりとした病院の床とは違い、車椅子の車輪が地面の上をゴツゴツと回る。  普段より乗り心地は悪いはずなのに、伝わる振動や、頬を撫でる風が一楓の表情をどんどん豊かにしてくれた。おまけに今日は天気も良くて、陽射しは春を予感させる柔らかさをたっぷり降り注いでくれている。 「やっぱ、屋上と違って外はいいな。お日様の匂いがする」  車椅子が路面を転がる音と調和し、一楓の声が心地よく合わさって空気に溶けていく。  久しぶりに二人で同じ外の空気に触れられて、律は側にいる体温の温かさに感謝した。 「だな。今日は晴れてよかったよ」  自然と声は弾み、嬉しさも楽しさも共に感じられる。当たり前のことがこんなにも大切なんだと改めて知った。 「今が桜の季節ならよかったのに。そしたら満開の桜を律と一緒に堪能できたのになぁ」 「本当だな。でも春はもうすぐだ、また一緒に来ればいい」  口にすれば思いは届く、そう信じて力強く願いを口にした。 「ねえ、律知ってる? 人ってさ、死ぬ間際に思い描いたものや、側にあるものに魂を移すことができるって」  何を突然言い出す。  そんな不吉なこというなと思ったけれど、冗談にすり替えて、なんだそれと、笑って聞き返してみた。 「仕方がない、律君には特別に教えてあげよう。あのさ、死にそうな時、例えば蝶が飛んでるとするだろ? それを魂が消えるまでジッと見つめるんだ、念を飛ばすみたいに。そしたら、魂は蝶に宿って好きな人の元へ会いに行ける。な、ロマンチックだろ?」  だから、何でそんな話をするんだ。  死ぬ話なんて、一楓の口から聞きたくない。 「……へー。いいなそれ。じゃあ俺は、そうだな。鷹か鷲にでも念を飛ばすか。あいつらの身体能力だとマッハで飛べるし、見た目もカッコいいだろ」 「もー律はロマンがないな。それに、自分が死にそうな時って、病院とかでしょ? そんなとこに鷹や鷲はいないし」 「ハハ、そりゃそうか。山にでも行くか」  早くこんな話を切り上げたかったのに、一楓が、「俺はさ……」と、耳を塞ぎたくなる言葉を言おうとする。 「……俺は桜の木になりたい。でさ、春になったら満開にしてみんなを笑顔にするんだ。でも、一番は律の笑顔が目的だけどね」  だからそんな悲しいこと言うな。  泣きそうになる。  やめて欲しかったのに、久しぶりの外出を楽しんでいる一楓に水を差したくない。  なのに桜に転生する話は道場まで続き、律はずっと涙を堪えながら、ひきつった声で返事をしていた。  車椅子を押していてよかった。  泣きそうな顔を、一楓に見られずに済んだのだから。  久しぶりに足を踏み入れた道場は変わらず厳かで、神聖な空気を胸に吸い込み、懐かしさと一緒に律の目は輝きを取り戻していた。 「弓道できる? 久々で」 「できるに決まって──あっ……」  しまった、と気付いてももう遅い。ずっと隠していたことをうっかり溢し、表情筋をひきつらせた笑いを浮かべた。 「知ってたよ、律が部活やめてたこと」 「そうか……」 「ごめん、俺の所為だよね。律、毎日会いに来てくれてたから」  袴の帯を締める律の手が止まる。  これまであれこれと理由を言って、やめたことを隠してきた。  一楓が知れば自分を責めると分かりながらも、上手い方法を見つけられなかった。  自分を浅はかな人間だと強く責めた。  責めるしか、自分には出来ない。 「俺がそうしたかったからいいんだ。一楓のせいじゃない」  道着に身を包んだ律は、車椅子の前に屈むと、ズレた毛布を掛け直しながら言った。 「……うん、でもごめん」 「一楓、そこは『ごめん』じゃなくて『ありがとう』だろ」  スクッと立ち上がった律の道着姿に、一楓の視線がついて来るのが分かる。 「やっぱ、カッコいいな……。俺は何度生まれ変わっても律に恋するよ」 「そんなこと言うな。俺らは今を生きてるんだぞ。でも、俺も同じ気持ちだけどな」  照れくさくても、的に挑む気持ちは以前と変わらない。とは言っても、数ヶ月ぶりの射は情けないものだった。  それでも勘は戻ってきたのか、数回放つうちにキレのいい音が風を裂いていた。  矢が上下にしなり揺れても、どの射も正鵠(せいこく)からは遠く、数本は虚しく安土(あづち)に刺さっている始末だった。 「あー、何回やっても外れだ! やってないとこういうことになるんだよ、なあ、一楓──」  頭を掻きながら振り返ると、開いていたはずの眸が閉じられている。  脳が一気に凍り付き、静謐な道場に弓が転がる音が鳴り響いた。  車椅子に駆け寄り、膝から崩れ落ちた律は、震える手で一楓の体を揺さぶった。 「い……ぶき……。いぶき、一楓! しっかりしろ」  眠る頬に触れながら、律は何度も名前を呼んだ。  だが、一楓の体はピクリとも動かず、両手はダラリと垂れ下がったまま精気を失くしている。  息をしやすいようにとマスクを外してやると、蒼白い肌に紫色の唇が、死へと直結しているように見えて背筋がゾクっとする。 「ダメだ……。ダメだ一楓! 目を開けろよ! いぶき! いぶきっ!」

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