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律と一楓 「ごめんじゃなくて……」

 モニターが規則正しい波形を保っているのを担当医が確認したあと、病室を出て行く白衣の背中に律は頭を下げた。  ベッドに横たわる一楓を見ると、さっきまで小刻みに上下していた胸はようやく通常の速度に戻っていた。  気が抜けた律は、その場にうずくまって頭を抱え込むと安堵のため息をはいた。 「やっぱり外出は無理だったね」  看護師がため息混じりに、律へと苦笑いを向ける。 「すいません、ご迷惑をかけて……」  深々と頭を下げると、律は眠ってる一楓に目を向けて後悔した。  俺がもっと強く反対しなければいけなかった。   そのせいで、一楓の命を縮めることになったかもしれないというのに。  一楓の体に色んな管を繋げる看護師。  カルテを睨むように、画像検査の結果を確認している医師。  PHSを片手に廊下に出て、一楓の叔母に電話をする事務員。  彼らみんな、必死で一楓の命の手綱を引き戻そうとしてくれている。  何もできずに部屋の隅っこで、祈ることしかできない律は、ただ、ただ、医療従事者に心から感謝をしていた。 「ごめんな、一楓……」  呟いた言葉が自らの涙を誘う。  手の甲で雫を拭いながら、涙腺が緩くなった自分に苦笑して眠る一楓の手を握り締めた。  指が微かに動き、同時に一楓の瞼が震えると、瞳が静かに開かれた。 「起きたか……」 「うん……。律、俺……」  言葉を吐き出す力が乏しい。  何かが胸の奥から迫り上がってなるのを感じながら、律は雪肌の頬に自分の頬を摺り寄せた。 「律、猫みたいだ……」  たおやかに笑う一楓が、永遠のものじゃないと伝えている気がした。  恐怖と不安に怯え、自分の非力さを思い知る。何も出来ない自分が悔しくて腹ただしい。 「律君、今日はそろそろ切り上げて休ませよう」  看護師が優しく諭してくる。  律はその言葉に従い、わかりました、と頷いた。 「じゃあな、一楓。今日は帰るな」  離れ難い気持ちが指先に表れ、いつまでも一楓を求めて手が解けない。 「律、今日はありがとう……」 「俺の方こそ。無理させて、ごめんな」 「そこは『ごめん』じゃなくて『ありがとう』でしょ? それに我儘言ったのは俺だし」  安心させるように微笑まれた自分が情けない。  一楓に救われてばかりで、何も与えることが出来ない。  己の未熟さに自分を罵倒したくなる。 「我儘じゃないよ。じゃ、また明日な、一楓」  静かに閉まった扉に背中をもたれさせた。  初めて出会った日……。  想いが重なった日……。  これまで二人で過ごした時間全てが、自分だけが抱く『思い出』に変わってしまう。  まだ十七歳なのに、まだそれっぽっちしか生きていないのに。  辛すぎてまた泣きそうになった。  もう一楓に残っている時間は少ない。  それなのに、泣くことしかできない自分が悔しい……。         ****  弓道場で一楓が意識を失った日から一週間が経った。  倒れた翌日、病院へ行くと、変わらない笑顔で一楓が手を振って迎えてくれた。  昨日、お風呂に入れたんだと、嬉しそうに自分の肌を撫でてすべすべだ、と報告してくれる。  袖がめくれて腕が垣間見えると、点滴のあとなのか、腕の柔らかいところが全て紫色に染まっていた。  針を刺させる隙間もないほど、内出血を起こしている。  もう、一楓を痛い目に合わせるのは勘弁してほしい。  そう思いながらも、抗がん剤をやめると、病魔が一楓を蝕んでこようとする。  治療しても、副作用が容赦なく一楓を襲う。  こんなの八方塞がりだと歯噛みしながら、スポンジを握りつぶすように丼を洗っていたら、加賀美が声をかけてきた。 「律、お前先に休憩入れ。今、客が少ないからさ」  洗い場から顔を覗かせた律は、「これ洗ったら」と、返事をした。 「クソ真面目だな、相変わらず」  加賀美の呟きも聞こえず、律は目の前の仕事に没頭していた。  働いていると辛さを紛らわせられる──  そんなことを一瞬でも考えてしまうほど、律も追い込まれていた。  辛いのは、怖いと思っているのは一楓の方なのに、そこから逃げようとする自分は未熟だ。  もっと強くなりたい……。  一楓の全てを支えられるように。 「律、あんま無理すんな。お前ちょっと痩せたぞ。それに……あ、いや何でもない。とにかく休憩しろ」  懸念するような声で加賀美が、頭をポリポリと掻きながら労ってくれる。  心配をかけているのがわかっていても、今の律には加賀美の思いを汲み取る余裕がない。 「じゃ、休憩いただきます」  作業を終えた律は加賀美に会釈し、事務所に入ってロッカーを開けた。  汗を拭きながら取り出したスマホを見た瞬間、全身が総毛立った。  半田の叔母からの着信が立て続けに三件もあり、最後は留守電になっている。  震える指で再生ボタンを押した。  メッセージが流れるまでの時間がとてつもなく長い。 『もしもし律君! 一楓君が危ないの! すぐ病院に来てっ』  悲痛な叔母の声で、律の頭は真っ白になった。  足元から凍っていく感覚に襲われ、手足が動かない。 「い、行かないと……。い……ぶき……」  固まった手をどうにか動かし、勢いよくドアを開けた。  力を入れすぎて壁にぶつかったドアの反動に行く手を阻まれる。 「どうした、律!」  荒々しい音に加賀美が飛んで来ると、視点が定まらない瞳で、加賀美の顔を見ようとした。 口がガクガク震えて上手く話せない。 「お前、顔が真っ青──。律、早く行ってこい。今日はもうアガリだっ」  異変を悟ったのか、加賀美が律の上着とリュックを取り出し、覚束ない手に握らせてくれる。  正気を取り戻すように背中を軽く叩かれると、そのまま店の外に押し出してくれた。 「す、すいませんっ!」  我に返った律は勢いよく頭を下げると、つんのめりながらも駆け出し、店を後にした。

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