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律と一楓 「ありがとう」
全力疾走で走り続け、病院に着いた時には酸欠状態になり、急激な痛みが横っ腹を襲っていた。
それでも律の足は止まらず、筋肉を駆使して病室を目指した。
「はぁはぁ……い、一楓……」
上下運動する横隔膜と一緒に他の臓器も揺さぶられ、筋肉が痙攣して脇腹へキリキリと痛みが走る。
腸は貧血状態になり、嘔吐しそうになりながらも律は病院へと駆け込んだ。
上階で止まったままのエレベーターに苛立ち、昇降ボタンを壊れるほど連打した。
ようやく箱が到着すると、まだ開ききっていない扉へ体をねじ込むように中へと乗り込んだ。
五階までが長い。
こんなに遅かったのかと焦っているとようやく到着し、扉の隙間に手を差し入れて押し開けると、一目散に病室へと向かった。
ノックもせずドアを開けたと同時に「一楓!」と叫んでいた。
転がるように病室に入ると、目の前ではドラマのワンシーンのように、医者が一楓の胸に聴診器を当てている。
「いぶき! いぶき!」
狂ったように名前を呼びながら駆け寄ろうとしたが、誰かに腕を取られた。
肩越しに見ると、半田の叔母が静かに首を左右に振っている。
「お、おば……さ、い、一楓は──」
叔母の目には、今にも溢れそうな涙が留まっている。
その姿から状況を理解しても、それは叩きつけて返したい現実だった。
腕を取られたままで律は「一楓、行くなっ、いぶきっ!」と泣き喚いた。
「よろしいですか……」
聴診器を首にかけながら、医師が振り返り叔母に話しかけてくる。
「最後に話されますか……」
医者の言葉が死神が持つ、大釜のように振り下ろされ、律は彼を睨みつけた。
「……最後……って……最後ってなんだよっ」
叔母の手を振り払うと、律が医者の胸ぐらを掴んだ。
白衣のボタンが引き千切られて、空 を舞った。
床にボタンが転がり、静寂の中を数回跳ねると、小刻みに揺れた。
そして静かに……ボタンは止まった。
悲しみに溢れた目で医者を睥睨 した律は、ベッドに横たわる一楓へと視線を変えた。
「大切な友達なんだね……」
白衣を掴んだ律の手を引き受け、医者が一楓の元へと連れて行く。
「さあ、彼は君に話したそうだよ」
冷静な声に力が抜けた律は、崩れ落ちるようにベッドのそばに跪いた。
「……り……はぁ、はぁ……」
消え入りそうな声で一楓が律と呼ぶ。
「一楓! 一楓しっかりしろっ」
弱々しく差し出された手を、包み込むように握った。
頼りな気な手は異様に冷たく、律は自身の命を分けるように撫でては口付けし、それでも冷えていく体温に堪えきれず涙を流してしまった。
「……り……、泣かな……で」
律の肩に手を添えていた叔母は、耐えきれなかったのか、その場を離れたことを頭の隅で感じていた。
「……母さん、一楓は……」
「い、今……律君と二人で話し……てる……うぅ」
叔母と誰かがそんな会話をしているのが聞こえてきても、今は一楓を引き留めることしか頭にない。
「一楓、一楓、逝くなよ、俺を一人にしないでくれ……」
一楓の体に覆いかぶさり、律は泣き崩れた。
二人の関係を好奇な目で見られても、そんなことどうでもよかった。
一秒でも長く愛しい命を引き止めるよう、自分の命を分けるよう、穿刺で赤紫になっている腕を必死で撫で続けた。
「り……つ……しあせ……ありが……」
生命が奪われていくことに抗うよう、一楓が伝えたい言葉を必死で声にしようとしている。その姿が更に律を震え上がらせた。
「さく……ら、一緒に……みたか……」
「もうしゃべるな、もう……」
ゆらりと差し出された一楓の手が、律の濡れた頬に触れて雫をそっと拭ってくれる。
「り……つ、だい……す……」
そう言った途端、頬に触れていた一楓の手が滑り落ち、力なくベッドから垂れ下がった。
「い……ぶき? おい一楓、起きろよ。目ぇ、開けろよ! 一楓!」
叫ぶ律の側で医者が波形に目をやり、一楓の手首に触れる。
心臓拍動と呼吸の停止、瞳孔を確認し、腕時計に目を向けると、
「心肺停止を確認。午後十時八分、ご臨終です……」と、無情な宣告をした。
事務的な言葉が律の耳をつん裂き、頭の中が真っ白になった。
目を閉じる体から命が消えたことを否定したくて、律は一楓の体を再び揺さぶった。
「俺は信じないっ。一楓……いぶき、起きろよ、起きてくれっ」
縋る腕を医者に掴まれ、一楓から引き離そうとしてくる。
律はそれを払いのけ、必死で冷えていく体にしがみついた。
「っ触んな! 俺らをほっといてくれ! 一楓、起きろよ。なあ、目を開けてくれ……」
泣き叫ぶ律に叔母が震える声で、律君、これ、と言って真っ赤な目で封筒を差し出していた。
「一楓君から預かってたの……」
誰の声も耳に入れようとしなかった律は、一楓の名前に反応し、目の前の封筒を涙に濡れた手で受け取ると、震えながら中を見た。
封筒の中からはお守りと、少しヨレた写真が一枚出てきた。
『合格御守』の文字が滲んでいる。
「一楓君、入院してすぐに外出したの。どうしても神社に行きたいって。律君が大学に合格できるよう、一楓君、一生懸命……祈ってたのよ……」
「大学……」
その瞬間、律は堰を切ったように慟哭した。
いつも自分のことより、律のことを優先してくれた。
いつも自分のことを後回しにして、いつだって笑顔で……。
お守りを握り締めたまま、嗚咽する律の目に写真が映り込む。
そこに写っていたのは、中学の修学旅行の時、眼鏡橋で撮った二人の笑顔だった。
嬉しそうに微笑む幼い一楓を見て、律の視界はさらに歪んだ。
一緒に過ごした時が津波のように一気に押し寄せ、うねる波の中に引き込まれながら滂沱 した。
眠る一楓にしがみ付いたまま泣いていると、写真を持つ指先の違和感に気づき、一楓の笑顔を裏返してみる。
その瞬間、体の奥から悲しみがせり上がり、耐えきれなくなった律は、泣き叫びながら病室を飛び出した。
部屋の入り口にいた亮介の引き止める声も聞こえず、律は廊下を無我夢中で走った。
走って、走って、辿り着いた先は、何度か外の空気に触れようと、一楓と散歩した屋上だった。
重い扉に手をかけると鍵は開いており、扉を開くと外は風が狂ったように吹き荒んでいた。 漆黒の空に、桜並木から運ばれてきた花びらが舞っている。
唸る風の中へ引き寄せられると、覚束ない足は段差に躓き、たたらを踏んで倒れ込むように目の前のベンチに掴まった。
「一楓……いぶき、いぶき、いぶき、いぶきぃ!」
嵐に歯向かうよう、暗闇の中を何度も何度も名前を叫んだ。
声が枯れるほど呼んでも、大切な人はもういない。
優しい笑顔も声も、体温も永遠に失ってしまった。
「ひとりにしないでくれ……お前がいないと、こんなの無理だ……」
握りしめていた写真を裏返し、そこに書かれてある文字を指先でたどる。
——律がずっと笑顔でいられますように——
たった一行の言葉に胸を締め付けられ、また涙が溢れてきた。
儚く消えた命は、どんなに願っても手の届かないところに逝ってしまった。
愛おしい温もりを失った恐怖が、欠けた未来が、律を孤独へと陥れようとする。
闇に手を伸ばし、光の残像に触れようとした。
けれど風で散った花びらさえも掴めず、律の手をすり抜けて夜空へと消えてしまった。
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