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律と一楓 「狂いざくら」

 むせび泣く律のそばに、ゆっくりと人影が近づいて来る。  その気配に気づいても、律の視線は地面に投げたまま涙を流すだけだった。 「すっげえ風だな。これって春一番ってやつか。せっかく桜も満開だったのに、これじゃ全部散ってしまうな」  律が項垂れたままでいると、落とした視界に缶コーヒーが差し出された。  一瞥すると、風で目が開けられないのか、片目を眇めている亮介が立っていた。  律は彼も缶コーヒーも無視して、地面に再び目を落とした。 「まあよかったじゃん、一瞬でも会えてさ。お前バイトだったんだろ? よく間に合ったよな」  轟音(ごうおん)と風の中、律は黙って亮介の声を聞いていた。 「お前、あいつの入院費作るためにバイトしてたんだろ。よくやるよな、赤の他人なのに」  哀惜(あいせき)のかけらもない亮介の言葉が心を貫き、律はまた頬を濡らした。  早くここから去ってくれ。  それだけしか浮かばない。 「けど、笑えるよな。病院でも噂されてたぞお前らのこと、ゲイカップルってな。親戚としてこっちが恥ずいわ」  神経を逆撫でするような笑いを含んだ声は、不快なノイズでしかない。  でも、もう、どうでもいい。早く消えてくれ。 「ひとりぼっちの病室で自分達の噂を聞いていた一楓は、たまったもんじゃなかっただろうな。お前はいつも自分のことしか頭にない。一楓が何も言わないのをいいいことにな」 「……何が言いたい」 「別に。ただ、一楓の気持ちを知ってたのかってことだ」  くだらない戯言だと亮介を無視し、律はよろよろと立ち上がった。 「待てよ、まだ話は終わってないぜっ」  缶コーヒーを地面に叩きつけ、通り過ぎようとした肩を掴んでくる亮介を、威嚇(いかく)するようにジロリと睨み付けた。  律の迫力にたじろぎながらも、今日の亮介は囀ることをやめない。 「いいこと教えてやるよ。俺さぁ、一楓とヤってたんだ。何回も何回もな」  挑発してくる顔を睥睨(へいげい)し、律は肩に置かれた手を振り解いた。 「あいつ口でやるの下手なんだよな。歯が当たって痛てーの何のって。何回教えても上達しねえし」  勝ち誇ったような声を、背後から投げつけてくる。  振り返って睨んでやると、亮介が悪辣(あくらつ)な笑みを浮かべていた。 「──っきから何言ってんだ。そんな嘘で一楓を侮辱するなっ」 「かわいそうな奴。そりゃ信じられないよな。お前とヤルだけじゃ足りなくて、俺のも咥えたがるんだぞ、一楓は。したたかなあいつにも気付かないで、ほんと、能天気な男だよな」  くだらない──。  嘘だとはっきりわかる愚劣な言葉を無視すると、律はその場を離れようとした。だが、亮介に行く手を阻むよう立ち塞がれ、口角を歪めさせながら顔を覗き込まれる。 「ま、俺のストレス発散、いや違うな、処理だな、処理。誰かにしてもらう方が気持ちいい。だろ? あいつさ、家を追い出すって言ったら何でもしてくれたんだぜ」  嘲笑(ちょうしょう)してくる男は、一楓と血の繋がった人間とは思えない下劣さを全身から滲ませながら笑っている。  清廉な一楓を穢されたように思い、我慢できなかった律は「お前──っ」と、睨みながら亮介の胸ぐらを掴んだ。 「冗談だと思うのか? お気楽だな、王子さ──」  憤怒した律は掴んでいた手を自分の方へ引き寄せると、反対の手を振り上げ、拳を亮介の頬に目掛けて叩き下ろした。 「いってぇな。俺は事実を言ったまでだっ」  体中を駆け巡る悲しみと怒り。それら負の感情が一気に爆発し、律は亮介の首をギリギリ締め上げると、地面へ押し倒し、腹の上に馬乗りした。 「ぐぇっ、お前何す──」 「一楓を侮辱するなっ、お前はそれでもあいつの従兄弟かっ」  亮介の上から唾棄(だき)し、律は手を緩めることもせず、襟元を掴んで激しく揺さぶった。 「ア、アイツ話さなかったんだな。俺と……ヤってるって、大好きな律にはさすがに言えないか」 「お前、いー加減に──」 「お前に嫌われるのが怖くて言えないよな。ほんと呑気な彼氏だよ、一楓をちゃんと見もせずにさ」  荒々しい感情が疾風のように体を貫き、眼球が溢れそうなくらいに目を見開いて亮介を見下ろした。 「あいつは言ってた、律、律って。自分のことしか頭にないお前の事をな! だから俺が慰めてやったんだっ。アイツ、俺にヤられて気持ちよさそーにし——ぐうぅ、苦し……」 「黙れっ!」  拳を振り上げ、口を塞ぐように亮介の頬へめり込ませた。 「ってーな! けど、そうやって怒っても俺と一楓がヤってた事実は消えない。お前だけが知らなくて滑稽だったよ。アイツとヤりながらお前の悔しがる顔を想像して、身も心も気持ちよかったぜ」 「黙れっ黙れっ黙れっ! お前に何が分かるっ。俺はいつも一楓のことだけを思ってた! お前なんかと一緒にするな!」  叫んだ律の手が緩んだ隙に体をひっくり返され、今度は律がアスファルトに背中を押しつけられた。 「じゃあ湊はどうする? 一楓が言ってたっけな、二人の仲が良すぎて羨ましいってさ」 「湊? あいつはダチだ。それは一楓もわかってるはず──」 「お前はそうでも、一楓がどう思っていたかなんて考えもしなかっただろ。お前と湊は大学へ行く。就職するアイツがどんな気持ちだったか考えたことあんのか? なのに……それなのに、さっきのは何だよっ。一楓は最後も律って、最後まで律って! 俺の方がずっと小さい頃から今も、ずっとずっと分かってやってた。一緒に暮らせるようになって、俺がどれだけ、どれだけ嬉し……。くそっ! なのに、なのに……お前さえ、お前さえいなけりゃ!」  罵倒と共に亮介が拳を振り上げ、律の顔を殴りつけてきた。  重い衝撃と意趣返(いしゅがえ)しの言葉を何度も喰らい、唇から血が滲んで鉄の味が口の中に広がる。 「……一楓が見ているのはお前だけだった。だから少しくらい自分のもんにしてもバチは──」  身勝手な言葉を捻じ伏せるよう、亮介の体を押し退けると、律はその頬を殴った。  よろめく亮介の反対の頬も殴りつける。  拳に痛みが走った。 「そんな歪んだ思いが一楓に伝わると思うのか!」  亮介を締め上げながら、泣いて助けを乞う一楓の顔を想像した。  (いきどお)りと悔しさと、気付かなかった愚かな自分も殴り飛ばしたくなる。  煮え繰り返る怒りの感情が、腹の底から湧き上がる。  どんなに恐くて悍ましかっただろうか。  助けてと、名前を呼ばれたかもしれない。  それなのに一楓は打ち明けることも出来ず、ひとりで苦しんでいた。  考えるだけで気が狂いそうになる。  失った後で知った真実になす術もなく、律は亮介から手を離すと、力なくその場にへたり込んだ。 「偉そうに俺を責めるけど、お前の方こそ一楓を裏切ってるよな。お前、湊とヤってるだろ? 湊のやつ、めちゃくちゃ嬉しそうでさ。あいつの気持ち知っててヤってたんだろ? だからお互い様ってこった」  肩をポンっと叩かれ、冷めた笑い声を残しながら缶を蹴り飛ばし、亮介は嵐の中へと姿を消した。  スチール缶の甲高い音がこだまし、律を戒めるように頭の中で敬虔(けいけん)な祈りに似た音が鳴り響く。    そうだ……俺は、俺は……。  湊から呼び出される度に、湊と肌を重ねる度に、いつだって後悔しかなかった。   他に方法を知らない愚かな自分は、亮介の言うとおり一楓を裏切っていた。  どうすればよかったのか分からない……。  一楓には嘘をつき、湊からの好意を友人の顔で無視していた。  俺は二人を傷つけていたのか……。  吹き(すさ)ぶ風に押されるよう、立ち上がると、フラフラしたまま階段を降りた。  玄関まで行くと、押し出されるように病院の外へ出た。  覚束ない足取りで歩き出すと、無意識に病院の近くにある橋へと辿り着いていた。  一楓が一緒に歩きたいと言っていた桜並木道だった。  橋から通りまで連なる桜は風に晒され、枝にしがみ付いていた花は零れ桜に身を変えると、愛染の空を狂ったように舞っていた。  恐ろしいほどの美しさを見上げながら、律はポケットから写真を取り出すと、一楓の笑顔でまた目が熱くなり、耐えきれなかった雫が写真を濡らしていく。  これからも続くはずだった一楓の物語は、律の願いでもあった。  共に生きることは、未来へ進むための糧だった。  見上げた夜空に星など一つも見えない。  真っ暗な闇は、今の律の心を表しているようだ。  いつも自分のことは後回しにして律を優先し、常に笑顔をくれた。  幸せも、何気ない優しさも、人を愛する心も全て……一楓が教えてくれた。 「俺は……自分のことばっかで、お前に甘えて……」  橋の欄干にしがみ付き、泣いて、泣いて、泣き尽くした。  置いてけぼりにされた子どものように、律はひたすら一楓の名前を嵐に向かって呼び続けた。 「ごめんな一楓……気付いてやれなくて。恐かっただろう。苦しかっただろう。俺もすぐ逝くから。もう、ひとりにはさせない、これからもずっと一緒だ……」  律は欄干に手をかけ、足を蹴り上げた。  花びらが引き止めるように纏わりついても、橋に身を委ねた。  不安定な体を嵐が揺さぶり、律の上半身は橋の外へとぐらりと傾く。  重力に逆らわず、頭を下げて手を離せば一楓の元へ連れて行ってくれる。  律は目を閉じ、力を抜いた──その瞬間、腕を掴まれると、強い力で反対方向に引き戻されていた。  勢いよく後ろへ倒れて咄嗟に手を付くと、柔らかいものに触れた。  自身の胸の前には、誰かの腕が巻き付いている。 「痛ったた……あ、おいっ、君、大丈夫か!」  耳の側で声がし、律は自分が地面にいることに気付く。  死を選んだはずなのに、まだ生きている……。  朦朧とする視界に、男が何か叫んでいるのが見える。  必死で何か言っているけれど、耳に水が詰まったように聞こえない。 「こんな暗闇で橋に登ったら危ないだろっ。あんな高さから落ちたら怪我だけじゃ済まないぞっ」  男が怒鳴っている。  律は彼の腕を振り払うと、再び欄干へとよじ登ろうとした。 「あ、おい! 何やってんだ、やめろって!」  下半身を男に抑え込まれ、体を制御された。 動きを封じられても、無我夢中で律は暴れた。 「ほっといてくれ! 一楓を一人になんかできない。俺が一緒にいないと……あいつ寂しがりのくせに強がるから。今度こそずっと側にいてやるんだ! 離せよ! 離せっ」  男の手が一段と力を増し、律はまた地面へ引き戻された。  それでも力づくでもがき、再び欄干に手をかける。  男はすかさず、そこから手を引き剥がそうとしてくる。  見知らぬ男との攻防に、律の力は次第に衰えてきた。 「よせって! そんなことしたってイブキとやらは喜ばないっ!」 「離してくれ! 行かせてくれよ、あいつのとこへ! いぶき、いぶき、ごめん、ごめ……」  尋常じゃない腕力で羽交い締めにされても諦めず、律は引き止める腕を必死で拒絶した。  その時、鳩尾(みぞおち)に重い鈍痛を味わい、律の体は前のめりになって倒れた。  男に抱き抱えられる感覚を味わう中、花びらだらけだな、と呟く声と一緒に、優しく触れる指の感触が、愛しい人を思い出させた。  薄れていく意識の狭間で手を伸ばすと、迎えてくれた手を見つけ、律は縋るよう柔らかな手を握り締めていた。

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