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律(と一楓)「ぬくもり」

 窓から注ぐ日差しで瞼を刺激され、目が覚めた門叶は、横で眠る秀麗な男を一瞥した。  時計を見ると、朝の六時。 「マジか……。朝になってる……」  自分が朝まで眠っていたことに驚いた。  何年も前から他人と一緒に眠ることなどできなかったのに、朝まで一度も起きなかったらしい。  信じられない気持ちのまま、再び静かに寝息をたてている寝顔を見下ろした。  即席の愛を求める相手とは、朝まで一緒に過ごさない。というか、過ごせない。  何度か試したけれど無理だった。  肌を求め合うことをしても、夜には部屋を出て一人で家に帰る。  もう何年もそうして来た。  行為に及んだ後の甘い囁きは好きだけれど、泊まらない? と誘われたら仕事を理由に帰っていた。  門叶は、人と同じ布団で眠ることができない。  正確に言えば、肩を並べて横に並ぶことはできるけれど、ことができないのだ。  意識のない間、誰かに背中を向けるのが怖い。ちょっとしたトラウマだった。  俺、もしかして爆睡してたのか……。  高熱を出した彼の体を心配し、付き添っているうちに睡魔と寒さに負けてベッドに潜った。   冷えた体を温めたい。ただそれだけで布団にこっそり入り、ベッドライトをつけて文庫本を読んでいたのに、いつの間にか眠っていたとは。  他人が横にいると気になって、大抵は夜中に起きてしまうのに。  ましてや朝までなんて……。  自分以外の体温が籠る布団の中は心地よく、清々しい目覚めを実感したのは子どもの頃以来だった。  カーテンの隙間から溢れる朝日を避けようと、寝返りを打つと、隣で眠る彼が掠れた声で小さく唸った。  闇が隠していた素顔が露わになると、まだ幼さを残していて、頬は光の欠片を跳ね返すほど輝いている。  若々しい手は門叶の指に緩く絡まったままだった。危うさが可愛くていつまでも眺めていたかったけれど、自分の手をゆっくり抜いて額にかかる前髪を優しく掻き分けてやった。  誰かと間違えているのはすぐに分かった。  きっと『イブキ』と言う名前のだろう。  性別が男だと思ったのは、彼が迷うことなく男の自分の体を求めきたからだ。  二十代も後半になれば、セックスの数も一度や二度ではない。  手や体の動かし方で、どうすれば快楽まで登り詰められるのかわかる。  きっと、大切な人を失った。  そんな経験をし、熱も併発すれば彼が意識を混濁してしまうのも無理はない。  その中で、恋人を求めるに、彼から迷いは感じられなかった。  きっと、『イブキ』とやらは、この世にもういないんだろうな……。  泣きながら求めてくる手が切なくて、人違いと分かっても拒みきれず、彼を受け入れてしまった。  何より彼の相好は、溜息が出るほど美しい。 悲壮感が滲み出ていても、逆にそれが色気を引き出しているようにさえ思える。  運命の人──なんて安っぽい言葉に縛られるのは好きじゃないけれど、その言葉に便乗したくなるくらい、門叶は高揚感を味わってしまった。    傷痕の残る顔を見つめながら、初めて他人の肌に安心を感じたことを不思議に思った。  まだ意識があった時に思った、背中に寄り添う彼の温もりからは、緊張や恐怖心は感じられず、彼の寝息すら心地いいと思えた。  洗練された寝顔を眺めながら、何度もひとりの名前を泣きながら呼んでいたことを思い出し、門叶は彼に同情した。  失った命はもう戻らない。  目覚めると、彼には避けられない現実が待っているのだ。  生きているものは死を選んではいけない。  今は辛くても、きっと愛は姿を変えて、未来の彼に寄り添ってくれる。  そう信じて生きていくしかない……。 「って、俺が言えた義理か……」  心で呟いた言葉に苦言し、門叶は寝癖のついた髪を撫で付けると、起きる気配のない律を気遣いながら、そっとベッドを離れた。        ****  目は閉じたまま、律は手の感覚だけで横にいるであろう恋人の肌を探した。  愛しい体を求めたのに、昨夜は確かに触れたのに、そこに温もりはもう、ない。   夢か……。そう思った時、「起きた?」と声がして、恐々と声の主を見た。 「ここは……」 「俺ん家。君、熱があって気を失ってしまったから、そのまま寝かしといたんだよ」  見知らぬ男が淡々と語ってくるけれど、息をして心臓が動く自分が悲しかった。  涙腺が崩壊したようにまた涙が溢れる。  死ねなかった。  一楓のいるところへ行くことができなかった。  その現実に涙が止まらない……。  ふと、香ばしい香りが鼻腔を刺激し、「飲む?」と、目の前に珈琲が差し出された。  門叶と言う男を見ると、彼がもたれている窓から朝日が差し、昨夜の嵐が嘘のように穏やかな朝がそこにあった。  自分だけが未来を生きることが苦しくて、胸元をキツく握りしめていると、指をそっとほどかれ、カップを握らされた。  手のひらに温もりを感じると、太陽が降り注ぐ部屋を見渡してみる。  一楓はもう……どこにもいない。  自分の側に、この世界に一楓はもういないのだ。 「桜ってさ、花と一緒に記憶も咲かせると思わない?」  窓枠に座る門叶が硝子越しの空に目を向けながら、唐突に語りだした。  律は無言でその横顔を見上げた。 「桜は特別な感じがするよね。卒業式や入学式、大学の合格発表の時とかも咲いてたな。時々恐怖も植え付けてくるけど、満開の桜はとても美しい。あ、でも中学の時、練習試合に言った先の桜の下で弁当食ってたらさ、上から毛虫が落ちてきて全部捨てる羽目になったことあったな。あれは苦い思い出だった。友達にパンを分けてもらったのを今でも覚えてるよ」  滔々と思い出を語る門叶の声が通り過ぎ、穏やかな朝に虚しさだけが不似合いで、辛くて泣きたくなる。  一楓と一緒に桜を見て、笑って、来年も来ようなって言って。  そう……思っていたのに、もう、欠片も叶うことがない。 「死んだ人間は美しくて前向きだよ。だから、生きてる側もそうならないといけない。生きてれば心に住む特別を思い出すことができる。辛くても記憶の中にいる大切な人と会える。これって人間の特権だよな」  門叶の言うことは理解できる。  生きていて、メシ食って、眠る。  それが生きている証だ。  一楓のいない今を、目まぐるしい日常に追われ、大切な人のことも忘れたくないのに、いつしか過去になって心に沈んでしまう。  それが律は怖かった。  一楓を絶対に忘れたくない。  一生をかけた恋なのに、思い出になんてしたくない。  人間の特権とやらを、葬りたくなる。 「生きている自分を追い込むんじゃないよ」  諭すような口ぶりが落ちて来て、律は顔を上げた。  彼のように大人になれば、この悲しみを乗り越えて生きていけるのかもしれない。  けれど、今の律には無理だと思った。  未遂に終わった自殺の理由も聞かず、穏やかに桜の話しをする門叶のようにはなれない。  香ばしい香りに誘われて、ひと口含むと「にが……」と溢した。  また、生きていることを実感させられた。 「ブラックだからね」  門叶が景色から律へと視線を変えた。  目が合うと、彼を縁取るように光が踊って煌めいていた。  綺麗な人だなと、律はこの時初めて思った。  窓の向こうにひらひらと流れる花びらが見えると、空を舞う淡い姿に昨夜見た恐怖はもうなかった。         **** 「一人で帰れる? 熱まだあるっぽいけど」  門叶は覚束ない足取りで靴を履く律を心配した。 「大丈夫です。ご迷惑……かけました」  頭を下げる律の色のない笑顔が気になり、「もうあんな事すんなよ」と念を押してみた。 「……何も聞かないんですね」 「うん……でもそっか、名前くらいは教えてもらおうかな」  門叶は笑って言った。 「あ……はい。(りつ)繪野律(えのりつ)です。あの、ありがとう……ございました」  律がもう一度頭を下げるから、門叶は頭頂部をポンと叩いた。 「りつ、だね。元気でな、律」  マンションの廊下から角を曲がるまで、律は何度も振り返り、小さなお辞儀を繰り返していた。  離れて行く背中が見えなくなると、門叶は部屋に戻りドアをゆっくりと閉めた。  昨夜、自分の中で起きた不思議な感覚。  陽だまりのような温もりが、体の内から温めてくれた。  愛も気持ちもないセックスは何度も経験してきたけれど、同じ感情がない夕べの行為は全く別のものだった。  律から受けた手や唇の感触を愛おしく思えて、そして切なくなった。  心を捧げた人の代わりでもいい。  そう思えるほど、昨夜のセックスは幸せだと思ってしまった。  中学の時に受けた性被害は、まだ少年だった門叶の幸せな未来を奪った。  好きな人ができても、甘い流れになると途端に体が硬直した。  最初は初めてで照れていると思われても、怯える姿は恐怖から生まれたものだとすぐにバレる。  最後は相手から匙を投げられ、門叶はまともに恋愛ができなくなってしまった。  背後からいきなり襲われた恐怖が軽いPTSDとなり、大人になった今でも恋愛に臆病なままだ。  不意に背中に声をかけられると、今でも萎縮してしまう。   誰かと一緒に朝まで眠ることなど皆無だった。  ねっとりと汗ばんだ手、生温かい息遣いが消化器官を刺激して、男のことを思い出すだけで嘔吐しそうになる。  誰とも朝まで過ごせない。  自分は一生、一人で生きていくしかないと思っていた。  それなのに、健康な身体がどうしたって疼くから始末に追えない。  初めて会った律の気配は、心弛(こころゆる)びなまでに安らげるもので、朝まで眠れた自分がまだ信じられなかった。  りつ……。  記憶に留めるように呟いた。  消え入りそうな温もりを引き止めるように。 「連絡先でも聞いとけば──いや、何を言ってるんだ……」  自分で自分を叱責すると、再び律が過ちを起こさないように願いながら、門叶はもう一度窓の外を眺めた。

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