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もうひとつの顔
「りーつ、今日はもう講義終わりだろ？ で、バイトは休みだな」
中庭のベンチで珈琲を飲む律を見つけた湊は、弾んで駆け寄ると律の背中に甘えてみせた。
「ああ、今日は久々の休み」
喉元を曝け出して珈琲を飲む姿でさえ、色っぽくて美しい。
特等席で律の顔を眺めながら、湊は以前からずっと言いたかったことを口にした。
「あのさ、もうお前バイト辞めろよ」
律の背中を指先でなぞると、甘えるように下から顔を覗き込んで言った。
「何言ってんだ。バイト辞めたら金払えないじゃん」
「いや、だからそれもういいって。半田さんからちゃんと支払ってもらってるんだし」
「だめだ。請求額をだいぶん安くしてくれてるっておばさん言ってた。しかも個室なのに格安でだ。ほんとにありがたいよ……。だから差額分だけでも払わせてくれ」
毎月受け取る一楓の治療費。
その度に、もういない一楓がまだ律の側にいるように思える。
妬みと苦しみ、それと罪悪感で、一楓がらみの話題を口にする度に息苦しさを感じていた。
早く一楓なんか忘れてしまえ──。
そう言えたらどれだけいいか。
律がまだ一楓のことを忘れていないのは分かっている。
それでもいつか、『悪いな』なんて言って、自分に甘えてくれるかもしれない。
そんな夢を描いてしまう。
「わかったよ。あ、なあ、それより腹減らないか？ 俺、行きたい店あるんだ」
話題を切り替えて、湊は律の腕に甘えた。
「ああ、そうだな。たまには行くか」
「やりー」と、飛び跳ねて大袈裟に喜ぶと、律が笑ってくれる。
それだけで心が浮かれてしまう。
今日も律の笑顔は自分だけのものだ……と。
電車に乗って二駅先の駅に降りて数分歩くと、古民家風のカフェに辿り着いた。
「へー、こんな店あったんだ」
「ここ、珈琲が美味いって。律、珈琲好きだもんな。俺はブラックなんて飲めないけどさ」
昼時をすぎた時間だったからか、店内は空いていて、奥のテーブル席に一組。
それとカウンターに、常連客らしい二人が座っているだけだった。
案内された席に座り、メニューを見ていると「湊？」と、頭の上から声がして顔を上げた。
「亮介！」
「久しぶりだな、湊。と、繪野……も」
テーブル席にいたのが亮介たちだったらしく、店に入ってすぐ気付いたと言ってくれた。
一楓の葬儀から久しぶりの再会だった湊と亮介は、懐かしさにテンションが上がり、亮介は一緒に来ていた仲間に一言伝えると、湊の隣に腰を据えて話し始めた。
「で、二人はめでたく付き合ったのか？」
近況報告をひとしきり終えた亮介が、冷やかしのこもった質問を投げてくる。
皮肉めいた問いかけに答える気のない律は、運ばれてきた料理を黙々と口へ運んでいた。
律の反応に焦った湊は、「俺達はそんなんじゃ──」と取り繕った。
だが脆い言葉は、良かったじゃん、と祝福を装った嫌味で遮られてしまった。
「ようやく大好きな『律』を独り占め出来たんだな、湊。おめでとさん」
「は？ 何言ってんの？」
敢えて『律』と名前呼びにする亮介の意図に、湊は目一杯の睥睨を向けた。
さっきまでの懐かしさは、今の言葉であっという間に蒸発してしまった。
「別に。言葉の通りだけど」
「亮介、お前っ」
澄ました顔にムカつき、立ち上がって亮介に掴みかかろうとした湊は、「やめとけ」と律に制止された。
握ったこぶしの中で爪をたて、不完全燃焼したままで荒々しく座り直す。
せっかく律と久しぶりに食事をしているのに、これ以上嫌な空気にはしたくない。
「相変わらずの男前だな、繪野は」
突っ掛かってくる亮介に不快を感じたのか、律が上目遣いで睨んでいる。
同時に亮介が不適な顔を見せた。
その顔に、ふと湊の心に不穏が孕む。
過去に口止めしていたあのことを、もし今、亮介が口にしたら……。
消したくても消せない愚行が不安となって態度に出ると、案の定、勝ち誇った顔の亮介が生まれてしまった。
「そうだ繪野、お前にいいもん見せてやるよ。湊もまだ持ってるんだろ？ なら見せてやれよ。繪野の澄ました顔がいつまで続くか見ものだ」
テーブルを挟み、亮介と反目する律の目に畏怖 を予感した。
急に体が震え出し、歯の根までガタガタと鳴る。
何も言葉が出てこない。
頭では警鐘が鳴り、早く亮介を止めろと叫んでいるのに。
じゃないと、律を永遠に失うことになってしまう。
「どうした湊、目が泳いでるぞ。もしかして、お前もう消しちまったのか？ あ・れ・を」
言下に言った亮介がスマホを取り出すと、そこからの亮介の動きがスローモーションのように見える。
間に合うはず、そう思ったのに、リーチの差で湊の手はスルリと交わされてしまった。
酷薄な笑みを浮かべながら、亮介の指がスマホの液晶を滑る。
「繪野、お前の大好きな一楓だぞ」と、片方の手で湊を押さえながら亮介の手は動画を再生し、それを律に突きつけてしまった。
ここにいる人間にだけ聞こえるように音声が設定され、画面を突きつけられた律の顔が一瞬で凍り付いた。
動画の中で制服の一楓が必死に抵抗し、助けを求めている。
後頭部を掴まれ、強引に亮介の股間に顔を埋めさせられ、悍ましい行為を強いられて涙を流している。
僅かな音声なのに、湊には一楓の泣き声がはっきり聞こえた。
その声は、湊を責め立てている。
港が絶望の淵に立たされた瞬間だった……。
律を見るのが怖い。
動画はまだ再生が続いている。
もう忘れていた、一楓の声がよみがえって、湊を激しく罵倒しているように聞こえた。
「顔は映ってないけど、一楓を押さえ付けて動画撮ってるのは湊だぜ。声でわかるだろ？ それに湊が言い出しっぺだ、『一楓に慰めてもらえって』な。ほら、一楓が『りつぅー』って呼ぶ声、聞こえるか」
画面の中で恐怖に怯え、泣きながら『律』と何度も呼ぶ一楓。
それを目にし、律が瞬きもせず、怒りで体を震えさせている。
額の血管を青く浮かびあがらせ、眉も目も裂けるほど吊り上がっている。
律の怒りが震えとなって、テーブル越しに湊までビリビリと伝わってきた。
陵辱される一楓の姿に、眥裂髪指 となった律の顔は、業火を宿して湊を睨みつけてきた。
「り、り……つ、あの、これ……俺は……」
しどろもどろな声は言い訳にもならず、湊は憤怒する目から逸らしてしまった。
これまで築き上げてきた律との関係が、積み木のようにガラガラと崩れていく。
罪の音を聞きながら、真横で嘲笑う亮介を睨んだ。
今日、亮介にさえ出会わなければ、ずっと律の横で笑って過ごせるはずだった。
今日、律をランチに誘わなければ、律は永遠に自分のものだった。
それでも、不安は拭えなかった……。
一楓にした卑劣な行為を、いつ律に知られてしまうのかと、怯えは常に頭の片隅にあった。 後悔と反省を繰り返しても、一楓には伝わらないし、律に知られることだけに怯えた。
これは自業自得なのだ。
いつか訪れると知っていた、原罪だ。
目の前から伝わる怒りで身を震わせていていると、律が徐に立ち上がり、亮介の手からスマホを奪った。
テーブルにゴトリと落とした次の瞬間、拳が思いっきり振り下ろされると、画面へと叩きつけられた。
破壊される音と亮介の叫ぶ声が店内に響き、客の目が一斉に三人へと注がれる。
「てめぇー、何しやがんだ！」
亮介の咆哮を浴びても、律の表情は静かだった。
人が心底から怒ると、こんなにも無表情になるのかと湊はゾッとした。
「……手が滑った。弁償して欲しかったらいつでもこいよ」
抑揚のない低い声に威圧された亮介が、破壊されたスマホと律を交互に見て言葉をなくしている。
「り、律、血が……手から血が出て──」
傷付いた手に触れようとした湊の手は、「触んな」と、高圧的な声と共に冷たく払われてしまった。
血だらけの手で財布から二枚の紙幣を出すと、テーブルに叩きつけ、振り返ることなく律は店を出て行った。
「あーあ、粉々だ」
スマホが壊されたと言うのに、亮介は宝くじでも当たったかのように喜んでいる。
湊を追い込み、律を哀しみのどん底へと突き落としたことがそんなに嬉しいのだろうか。
腹を抱えて笑うくらいに。
「亮介、お前……」
「あー、清々した。お前だけ幸せなんて不公平だしな。そもそも一楓のことが邪魔で、湊が動画撮って脅そうって言ったもんな。今更善人ぶるなっての」
湊は黙ったまま、亮介の言葉を聞いていた。
律の側にいることが幸せ過ぎて、自分の犯した罪を忘れたフリをしていた。
言い訳すら言えなかったくらいに。
「おい、亮介何騒いでんだ、ってか、スマホ壊れてんじゃん。さっきの音ってお前のだったの？」
様子を見に来た仲間に「ちょっとな」と、鼻で笑いながら亮介が去って行く。
現実を見ようともせず、全部夢だったらいいのにと、ひとりっきりになった湊は崩れるように椅子へと沈んだ。
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