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悔根

 足が重い……。  体も心も鉛を飲み込んだように苦しくて、まともに歩いている自覚がない。  家に帰ろうと思ったが、母親に異変を見抜かれることを考え、友達の家に泊まると連絡をした。  今日は一人でいた方がいい──いや、本当は誰かに全部をぶちまけて縋りたい。  けれどその相手は母親でも友人でもない……。  (なぶ)られながら泣いて赦しを乞う一楓。それを嘲笑う湊の声。  喜悦した顔で欲望を満たしていた亮介。  三人の姿が律の心に焼き付き、この身が死んでも残る憎しみの塊となった。  自分が知らない間に、一楓があんな酷い目に遭っていたなんて、  一楓がいなくなってから、知るなんて。  なんて……情けない。  あの夜、亮介が言っていたことは事実なんだと、卑劣な動画でまざまざと思い知らされた。 亮介だけでも許し難いことなのに──。  湊、お前まで……おまえ、こそが元凶だったなんて……。  怒りで足元が覚束ず、何度もたたらを踏みながら、律は自宅とは反対の、慣れた道を歩いていた。  まだ開店前で暖簾は出ていない。  けれど灯りがついてる。  ここしか頼るところがない律は、縋るように扉へと手をかけた。 「すいません、まだ開店──って律か。どうしたんだ、今日シフト入ってないだろ」 「……すいません」 「休みの日に珍し──お前、その手どうしたんだっ。血が付いてるじゃないか」  ダラリと下げた律の手から、乾いて赤黒くなった血痕を見つけると、加賀美がその手を取って叫んだ。 「……すいません」 「何かあったのか……?」 「す……いませ……」 「すいませんばっかだな。いいからそこに座れ」  必死で泣くのをこらえていた。  今ある気力は、なけなしのギリギリだ。  必死で理性にぶら下がっていないと、落下して木っ端微塵になる。  視線も合わすこともできない律は、カウンター席へと加賀美に座らせれた。  ──喧嘩でもしたのか?   聞かれたのはそんな言葉だったと思う。  怒りと絶望で何も考えられない。  律は左右に首を小さく振って俯いた。  荒っぽいことなんてした事がないお前が珍しいな、とか加賀美が言ってくれたように聞こえた。  けれど、すいません、とまた謝っていた。  加賀美が救急箱を取り出し、力の抜けた手の治療をしてくれる。  包帯を巻きながら、「今日、泊まってくか?」と言ってくれた。  律は黙ったまま頷くと、ようやく涙を流すことができた。        ****  尋常じゃないことが、律に起こったんだと思った。  吾一と地続きに建つマンションの三階。  走れば出勤時間一分の我が家に辿り着くと、加賀美は息を整えてドアノブに手をかけた。  鍵は開いていた。  ホッとしたけれど、顔を見るまでは不安が拭えない。  ちゃんと待っているんだろうな……。  ドアをゆっくり開けると、律の靴が玄関に転がっていた。  慌てたことが杞憂だったと、また胸を撫で下ろす。  リビングに入ると、床に散乱したビールの空き缶に埋もれた律が目に入った。  酔って眠ってしまったのか、眉間にシワを刻んだまま寝息をたてている。  加賀美は膝を折って顔を覗き込むと、憔悴した寝顔を眺めながらそばで胡座をかいた。 「こんなナリになるまで……。真面目なお前が、余程のことでもなけりゃならんよな」  律の頭を撫でながら呟くと、横たわるズボンのポケットから、紙のようなものが飛び出しているのが見えた。  加賀美はそれをゆっくりと抜き取って眺めた。  これは……律か。こっちは……。  今より少し幼い律と、童顔の少年が一緒に写っている写真だった。 「学ランってことは中学んときか? お前こん時からもう顔が仕上がってんじゃん」  写真をかざしてニヤついていると、裏に文字が書かれているのを見つけて裏返して見る。  書かれていた一文を読み、加賀美は腑に落ちた。  金が必要だったのはこの子のためだったのだ。  高校生の時、無茶な働き方をして母親を心配させた。  叱っても諭しても、決して曲げなかった確固たる決意。  自分の身を犠牲にしても、この少年を守りたかったのかと、加賀美は眠る律と写真の二人を交互に見つめた。 「何があったか知らないが、俺を頼ってきたのは褒めてやるよ」  髪を梳いてやると律が体を反転し、覚醒を予感した加賀美は写真をテーブルの上にそっと置いた。 「い……ぶき、いぶ……く……な」  掠れた声のうわ言。  瞼も痙攣させている。  手の届かない闇で苦しむ律を、軽く揺さぶった。  夢と現実の狭間で小さな呻き声を上げると、律が開眼した。 「……あ、し……んごさん。すいません、俺……」 「お前、これは飲み過ぎだろ」  空き缶を片付けながら、加賀美はわざとボヤいてみせた。 「すいません……。俺、買ってきます」  立ち上がろうとした律の手首を掴み、加賀美は無理やりソファに座らせ、何があったんだ、と静かに問いただした。 「……すいません」  深々と下げてくる頭をペチンと叩き、冷蔵庫からペットボトルを取り出して律の手に握らせた。 「あのな『すいません』はもう聞き飽きたわ。お前がそんなボロボロになるなんてよっぽどのことだ。全部吐いちまえよ。そのために俺んとこへ来たんだろ」 「あ……いえ、その……」 「お前が凹む原因は、この子に関係あんのか」  加賀美はテーブルの上に置いた写真を、律の前に差し出した。 「言いたくなけりゃ言わなくていい、何て、俺はカッコつけたこと言わないぞ。時間かかってもいい、待ってるから全部吐き出せっ」  加賀美は煙草を深く吸い込みながら、窓を少し開けた。  紫煙が棚引き、部屋の空気が揺らぐのが見える。  加賀美が二本目の煙草を口にねじ込もうとした時、律の唇が静かに動いた。  薄い上唇にペットボトルをあてがうと、水でそこを湿らせ、加賀美に視線を重ねてくる。 「……真吾さん。俺、その写真の一楓と付き合ってました。かけがえのない恋人です」  まるで本人が隣にいて、加賀美に紹介するように語る真っ直ぐな視線。  加賀美は煙草を灰皿に押し付けると、律の前に座った。         **** 「──なるほどな。で、お前はその『みなと』って友達に裏切られたって言うんだな」  煙草を燻らせる真剣な面持ちの加賀美に、口にするのも避けたい話を律は全て吐露した。 「……あいつは金持ちの一人っ子で我儘だけど、悪い人間じゃない、そう思ってたんです」  これまで唯一、湊に向けてしまった嫌悪は、一楓の入院と引き換えに出された馬鹿げた条件だけで、それ以外は何もない。  寧ろ、病院長の息子だということに甘え、湊を利用していたのは自分の方だった。 「お前が一楓君のことを、どれだけ思っていたか俺は知ってる。受験勉強と両立して、入院費を稼ぐのを間近で見ていたからな」  無謀な考えの高校生を、唯一理解してくれたのは加賀美だった。  だからこそ今夜も、無意識に彼を頼ってここへ来てしまった。 「俺にとって一楓は特別なんです。初めてあいつを見た時、心も笑顔もこんなに綺麗な人間を見たことないって思ったんです。性別なんて関係ないって思えるほどに」  一楓の笑顔を浮かべながら、一楓のことを口にする。それだけで泣きそうになった。 「お前はきっと一楓君の魂に惚れたんだな」 「魂……そうかも知れません。一楓は俺に色々なものを教えてくれました。幸せも、心から誰かを想うことも。なのに俺は何もしてやれなかった。従兄弟に聞かされた時も、あいつの戯言だと信じてなかった。なのに、それは本当のことで、おまけに湊が発端者だったなんて……」  膝に置いたこぶしの中で爪が食い込む。  痛みに与えてないと、気が狂いそうだった。 「人ってさ、何かのきっかけでいい方向に変わることが出来るんだ。根っこの部分が悪人じゃなければな。お前の側にいた湊君は『いい奴』だったんだろ?」  加賀美の言っていることを頭では理解出来ても、感情がそれに追いつかない。  二人で寄ってたかって一楓を苦しめ、どれだけ怖かったか。  嬲られた人間の気持ちは、本人にしか分からないんだ。 「……動画の中のあいつは獣だった。聞いたことのない卑劣な声の男だった。けど、俺も最低だ。気付かないどころか、俺に打ち明けることもさせてやれなかった」  こぶしが骨を突き出して白くなる。怒りで体が震えてきた。 「お前が怒るのも分かる。でも、お前は湊君の気持ちをちゃんと知ろうとしたか?」 「どう言うこと……ですか」 「話を聞く限り、彼は律のことが好きなんだろう。じゃなけりゃ、セックスしてくれなんて言うか? 一楓君のことで頭が一杯のお前に。で、その彼の前でいつもお前はどうしてた?」  一楓を失った日、同じようなことを、亮介に言われたことを思い出した。  湊はただの好奇心で自分との関係を求めた──、そう思っていた。いや、……違う。  湊の気持ちを薄々知りながらも、気付かないフリをして、友達と言うカテゴリーを押し付けた。  一楓だけを好きな自分を見せつけて。  それでも── 「それでも……俺は許せない……」  自問自答を繰り返しても、答えは変わらない。  友人の顔をして平気で欺き、一楓を陥れた罪は一生許せない。死んでも消えないっ。 「今は無理でも時がきたら解決できる。お前は、『いいやつ』なんだから」  加賀美の声がくぐもって聞こえる。  いまだ消えない一楓への想いが、湊を許す心にブレーキをかける。  亮介を憎み続けていた。  だがその亮介を煽ったのが湊だった。  画面の中で助けを乞う一楓の声が、泣き崩れる顔が、ずっと頭を離れない。

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