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第8話
再開発を積極的に進める豊洲で、五十階建てのタワマン建設の話が持ち上がったのは、今から約二年ほど前だったか。荒れた海のように、あのときの社内はなかなかざわめきがおさまらなかった。
七十年以上の歴史はあっても、俺たちの会社のTSEは、主に中規模の建造物内にエレベーターを取り付けることがメインとなる。
大規模な案件になればなるほど、入札に参加するための資格に満たないから、と門前払いされるのはよくあることだったが、サブコンである下請け企業に向けて今回のタワマンの仕様が情報公開されたとき、TSE内は騒然とした。
施主もといディベロッパーの意向だったんだという。
街の一角から始まり、今やタワマン建設の元締めになるほど成長した不動産会社。下積み時代の苦労を知っているからこそ条件をゆるめて、広く募りたい。その条件はTSEを拾いあげ、結実するところまで漕ぎつけたのだった。
月曜十時。十畳ほどのミーティングルームには、緊張の糸が張り詰めていた。
プロジェクト会議の名目で、営業二課の課長、そして今回の営業担当である吉澤と、設計担当の野木さん、現場責任者である俺が座っている。
ワークライフバランスを大切にする、先輩の佐々木さんだったら「週明け早々に会議を組むやつ、まじで信じられん」とひどく憤ることだろう。しかし案件が案件だけに、会議に出席するメンバーの誰からも文句は出なかった。
「時間になったし、そろそろ始めましょうか」
まず切り出したのは、営業二課の課長、北村さんだ。若手起用に積極的で、今年から吉澤を主任というポジションに押し上げたのもこの人だという。
仏のような人だった。どんなトラブルが起ころうとも声を荒げることはなく、部下のミスには率先して状況把握に動き、対応してくれる。
営業二課の求心的存在だというのも納得だった。
「ああ、書記の存在を忘れてたね。今からでも総務の誰かに応援頼めるかな」
「書記、私がやりますよ」
北村課長の発言を受け継ぐ形で手を挙げたのは、設計課の野木さんだ。手足が細長く、どこか理知的な雰囲気をまとっている。歳は三十代半ばだったか。
設計課の担当が野木さんで、本当によかったと心から思う。
今回、吉澤と俺とこの野木さんで、何度となくミーティングルームに閉じこもり、設計や仕様を煮詰めたかわからない。妥協を許したくないのは俺たちの共通認識だったが、野木さんは特にその傾向が強い。多少笑顔は少なくても、俺たちの意図を汲んでは何度だって粘り強く、繊細な図面を書き起こしてくれる。
そんな野木さんが生み出す理詰めされた設計図は、いつだって現場での作業をスムーズにしてくれた。今回もきっとそうなると信じている。
「さて、今回の案件について、今一度おさらいしようか」
北村課長が吉澤に目配せをした。
「それでは、ここからは私のほうから。スライド資料を使って説明します」
緊張しているんだろうか。珍しく表情の変化の乏しさを感じながら、吉澤の行動を横目で見守る。
やがて吉澤の声とともに、プロジェクターを通して映し出されたのは「豊洲Nタワーマンションプロジェクト」の文字だった。もう何度も見た。何度だって聞いて、頭に刻みつけてきたプロジェクトだ。
俺たちの間では通称Nプロと呼ばれる、今回のプロジェクト。タワマンが着工してからもう一年半以上の時間が経とうとしている。
着工三ヶ月目には、現場の足場の一部として仮設昇降機を設置したが、それからはずっと水面下でNプロは動き続けていた。しかし気づけばあっという間に、エレベーターの据付工事開始まで残り一週間と差し迫っている。
工事が始まれば、俺は現場責任者として常駐しなければならない。ゼネコン側からそうあるようにと求められているのも理由の一つ。
今回の会議はある意味、決起集会のようなもので、各課の足並みをそろえるための最終確認を行うのが主な目的だった。
会議の間、いくつものスライドが切り替わる。誰かが発言をするたびに、乱れを知らないタイピング音が野木さんによって刻まれる。
そして次に映されたスライドには、エレベーターの据付開始から完了までの工程とそれにおけるおおよそのスケジュールが、可読性のいいフォントと表で作成されていた。吉澤の日頃の努力が滲むようだった。
「田所くん。もうすでに据え付けに向けて、資材、機材の搬入は終えているんだよね?」
北村課長の問いに、はい、と声を張る。
「搬入日がちょうど九月冒頭の台風と重なり、多少の遅れは出ましたが今は無事完了しています」
「了解です。納期を守りきる田所くんの仕事っぷりは知ってるから信用はしているけど、今後は期間内の職人の確保、資材の確認は都度しっかりとお願いします。万が一資材の不足が発覚したら、速やかに購買課へ報告あげて発注。コスト面や納期に影響出そうなら、吉澤くんに一旦報告」
「承知しました」
「うーん、表情が石みたいに堅い」
北村課長のツッコミに、吉澤がふっと吹き出した。野木さんはというと、ノートパソコンに打ち込む手を止めてまで肩を軽く震わせている。
会議中、天井が迫ってくるような圧迫感を覚えていたが、一気に室内の空気が和らいだ。
「……朝、高橋にも堅いと言われましたね」
よく人を見ている高橋ならまだしも、まさか北村課長にまで指摘されるとは。
「高橋くんは逆に柔らかすぎるぐらいだからなあ。そこがいいけど。それはさておき、リラックス。据え付け終了予定は半年後。短距離走じゃないんだから、そんなに気を張ってると息切れしてしまうよ」
吉澤くんと野木くんもね。言い含められ、二人は殊勝な態度で返事をした。
「なにかあったら、上の人間が出向くだけだから大丈夫。さて、ここからは営業課はいつものようにサポートに回ります。現場と設計に主導権を移すけれど、今後もチームプレイであることに変わりない。チーム内は常に密に。施工課、設計課の課長たちへの情報共有はよりこまめに。それだけは各自忘れない」
それじゃあ最後に、この案件を勝ち取った世紀の立役者、吉澤くんからひとこと。北村課長の振りに、それ逆に何も言えなくなるやつですって、と吉澤は苦笑し、ゆっくりと立ち上がった。
スピーチが始まる。
もし「実直」という言葉を体現するとしたら、それはきっと、吉澤の今の立ち姿のような気がした。
まずは皆さま、本日の会議にご出席いただき、ありがとうございます。営業二課、吉澤です。
えー、そうですね、今回の入札にあたり、本当にたくさんの方たちの力をお借りしました。決して自分だけの力で勝ち取った案件ではありません。
課題を徹底的に洗い出し、少しの見逃しも許さないと言い切る田所さんに、私は施工の可否を全面的に委ねました。
それからディベロッパーの意思を汲んで最高の静音仕様を設計してくれた野木さん。そして予算オーバーだからどうにかしろ、と提言する見積担当と野木さんのバトルに巻き込まれ、数えきれないほど仲裁したこともありました。
北村課長においては、営業補助としての立場以上に的確なアドバイスをくださり、ありがとうございました。
プレゼンを終えてようやく緊張から解き放たれたというのに、その帰り道、北村課長に「今年の我が社のスピーチコンテストに出てみない?」と告げられ、私を脱力させたことは多分一生忘れません。
つい長くなってしまいましたが、私の感謝の念の表れということで受け取っていただければと思います。
このあとは技術本部の皆さんに多くを任せることになります。皆さんの誇りをかけて、ぜひとも最高のエレベーターを作り上げてください。
どうぞよろしくお願いします。
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