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第9話

 昼食を終え、残りの昼休みは喫煙所で潰すために三階へ向かうと吉澤がいた。  吉澤のほかにも先客がいたが、この狭い空間でときどき会う程度のものだから、名前まではさすがにわからない。  お疲れ。吉澤と短く言葉を交わす。立ったまま吸う吉澤のそばに腰かけ、俺もまた目的のたばこに火を灯す。  それからしばらく、黙って煙で肺を満たした。他の人たちが時折、降り始めの雨粒のように世間話を口にする。それをぼんやりと聞きながらたばこを吸うのは、案外嫌いじゃない。  ふと、吉澤の声がした。  退室する社員に向かって、名前を呼んでから「お疲れさまでした」と少しだけ語尾を柔らかくし、別れのあいさつを告げている。名指しで呼ばれた社員が笑顔を返して出ていく様子に、つい目がいってしまう。顔を見なくても、吉澤は笑っていることだろう。  営業モードのときより少しトーンを落とした、その澄んだ声が心地いい。高度な処世術をさらりとやってのけ、誰の前でも笑えるのがこいつらしいなと思う。  この場所で再会して以降、営業職として臨機応変に、ときに誠実に立ち回る吉澤を、俺はもう何度となく目にしてきた。  営業課の高橋が相手の壁の隙間をぬうのなら、吉澤は壁と真正面から向き合うタイプだ。  電話をかけてアポを取り、できるかぎり直接足を運んで会いに行く。顧客の要望に寄り添い、TSEの持つ技術をすり合わせては、一番ベストな形で提案する。  俺たちの世代からすると、正直、吉澤のそんなスタイルは少々時代遅れのようにも見える。しかしそこに吉澤の人となりが加われば、そのスタイルを貫いてもおつりが来てしまうらしい。  伊達に「営業課のエース」と噂されているわけじゃない。  まさに人望と地道な努力、その二つで課内の売上に貢献し続ける男だった。  敵わないな。そう思いながら、長く煙を吐く。  いつしか喫煙所には、俺と吉澤の二人だけになっていた。  吉澤が俺の隣に腰をおろす。 「今日の会議。締めのおまえのスピーチ、よかったな。さすが元放送部」  ランチタイムラジオを思い出した、と狙い澄ましたように話題を持ち出した俺へ、吉澤の視線が注がれた。くすんだ景色の中、戸惑いながらも笑う吉澤に、昔の面影を見たようだった。 「やっぱり田所に褒められると、まんざらでもない気分になる。それがお世辞だとしてもさ」 「いや、お世辞じゃない。本気で思ってる」  ずるいって、それ。そう呟くと、吉澤は俺から目をそらし、つまんだたばこを軽く揺らした。 「上手い世辞が言えたなら、俺の人生は今と違ってただろ」 「たとえば」   そう問われ、答えを探すふりをしてから再び視線を戻した。 「吉澤みたいにTSEで営業ぐらいはやってたかもな」 「ははっ、ここで働くことには変わらないんだ?」 「ここの仕事は好きだ。手放したくない」  どこか眩しげに眉を寄せた吉澤だったが、珍しくなにも言葉を返してこなかった。たばこの始末をし、何度か呼吸を繰り返してようやく「俺も」と前を見たまま吉澤が言う。 「俺も、好き。多分好きじゃなかったら、ここまで続けられなかった」 「……だろうな」 「田所。おまえ今、昔のこと思い出しただろ?」  ふっと吐息を漏らせば、吉澤は拗ねてしまったらしい。いいだろべつに、と唇を曲げて言葉を続ける。好きなものに未練が生まれるのは、普通のことだし。 「とにかくさ」  ようやく吉澤が俺を見た。淡い笑みを浮かべている。たったそれだけのことが、どうにも上手くやり過ごせない。 「ずっと好きでいたいから、会社の命運かけてるNプロは絶対に成功させたい。俺もできる限り現場のサポートするから」  田所、頼む。  たったそのひとことが、胸を打つ。握りしめた拳が震えているような気がしてならない。  背後にずっと寄り添っていた冷たさは、今はもう遠くにいた。 「任せておけ」  二つの拳が、こつんと正面からぶつかった。 *  それから吉澤は、午後の会議の準備があるから、と俺より先に喫煙室を出ていった。  吉澤が出ていってからまた少し人が増えた。頻繁に煙が行き交う中、形ばかりのたばこを咥えて弄んでいるのは俺ぐらいなものだろう。  まだ、震えている気がした。握りしめていた手をゆっくりと開く。しばらく開いたまま、動かせなくなった。いくら眺めても、そこにあるのは変わり映えのない、見慣れた自分の手だというのに。  あのとき。  そうだ。俺たちの手は、あのときに一度、触れ合ったことがある。    こんなふうに互いの健闘を祈る、やさしい触れ合いじゃなかった。まるで酸素を求めるように。命乞いすらしているような、生々しさがあった。  堰き止めていたはずの昔の記憶が、鮮明によみがえる。高等部三年、文化祭前のことだった。  

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