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第10話

 三年に進級すると、吉澤はごくまれに人の輪を抜け出すようになった。本当にそれは唐突に、だが決して誰かに迷惑にはならないタイミングで訪れる。そんな配慮が吉澤らしいと思っていた。  進学校だったこともあり、クラスでのぼる話題は次第に勉強や塾、志望校や模試の話へと傾いていく時期だった。  大学受験という一大イベントを前すれば、こうした変化も仕方がないことなのかもしれない。  毎日のように学校や塾で受験という輪郭に触れ、家では親たちの眼差しがどこか鋭く感じられるのも、この時期特有のものなんだろう。  俺でさえ「受験」の文字にちょっとした鬱屈感を覚えたからこそ、吉澤から呼び出しのメッセージが届くと、すぐに足を向けた。 「田所、こっち」  その日、吉澤から指定されたのは、放送室だった。  呼び出される場所はいつも違う。予測もつかない。その前は体育館のエントランス、さらにその前は自転車置き場だったか。マンネリという言葉からこれほど遠いやつはいないだろうな、と思う。 「部外者が入っていいのか」 「多分平気。先週からちょっと機材の調子悪いんだよ。業者に来てもらうまでは、ランチタイムラジオはなし。部活もお休み」  初めて足を踏み入れた放送室は、想像していたよりも狭く、しかし本格的だった。機材とマイクの置かれたスタジオと、音響を整える調節室、それから部員たちが好き勝手に使っているだろう雑多な控え室に分かれている。  吉澤はその控え室の一角、床に座ってコンビニで買ってきただろう弁当を食べている。  吉澤が一人でご飯を食べる貴重な光景は、このときぐらいにしか見られない。いつも決まってクラスの誰かだったり、放送部の連中と昼休みを共有している。 「田所はもう昼ごはん食べた?」 「ああ。呼び出されたから急いで胃袋に突っこんだ」 「え、ごめん。俺のだけど、お詫びになんか食べる?」 「いらない。これ以上詰めこんだら、多分、出る」 「うそ、ごめん、ガチでごめん」  形ばかりの謝罪を口にしながら、吉澤はおかしそうに肩を震わせている。反省の色なんてあったものじゃない。 「それで、いつまでないんだ。ランチタイムラジオ」 「今週いっぱい。予定では」 「そうか、ないのか」  しみじみ呟けば、吉澤の不思議そうな視線を感じ取った。 「もしかして田所って、結局毎日ちゃんと聞いてくれてた人?」 「言わなかったか?」 「言ってない」  俺、もうとっくに聞かれてないと思ってた。吉澤がぼそぼそと言う。しかし、そう言われても、昼の時間になれば自然と耳が拾うのだから仕方がない。 「しばらくないとなると、案外さみしい気持ちになる」 「……でも、もっとさみしくなるよ。俺たち三年は文化祭が終わったら引退だしさ」  最後の一口を腹に収めると、吉澤はぴんと伸ばした手を合わせて「ごちそうさま」と静かに言った。弁当の中には米粒すら残っていなかった。 「さみしいなら、続けてみればいい」 「なにを?」 「放送に関わる仕事を目指すのも、いいと思う。おまえなら」  部活を流浪していたようなやつだ。結局高校三年間、放送部に籍を置けたことは吉澤なりに思うことあってのことだろう、と推し量ることができる。しかし当の本人は子犬のように首をすばやく振り、俺の意見を真っ向から否定した。 「無理むり、絶対無理」 「どうして」 「俺は将来、公務員になるから。そういう地に足ついたルートじゃなきゃ、いい顔しない。そのために中学受験も頑張ったんだし」  吉澤の口ぶりからして、質問を重ねなくても誰のことを指すのか予想はついた。きっと吉澤の家族のことだ。 「なのにこの前、判定結果のランク落ちててさ」  なんか、しんどいよな。  俺たちは押し黙った。  無力だった。どうしようもなく無力で、親の庇護のもとでしか息ができない子どもだった。  防音の効いた室内は昼休みの喧騒を嘘のようにかき消し、体の内側から生まれる心臓の音がうるさいほどだった。 「……田所は、理工学部志望なんだっけ」  先に沈黙を破ったのは吉澤だ。気をつかわせたのかもしれない。 「俺には姉がいるからな。金銭的にもできれば国立、と親に言われてるが」  やりたいことがある。そう言うと、吉澤がなんだか今にも泣きそうな顔をした。それからなにかを守るように、吉澤が自分の両膝を抱きしめた。  予鈴が鳴る。外の気配はかき消すのに、俺たちを現実に呼び戻すチャイムだけは残酷なほど正確だ。 「すごいよ」  やがて衣擦れの音を残しながら立ち上がると、吉澤は俺の目を正面から貫きながら、そう言った。やっぱり田所は、すごい。  なぜ。そう問いかけようとして、言葉を飲む。そんなことを、今までに何度繰り返してきたかわからない。  吉澤がことあるごとに言う「すごい」はまるでまじないのようで、俺の中身とはいつもどこかずれている。  それでも「すごい」と言う吉澤の瞳に、俺はどう映っているのか、考えれば考えるほどわからなくなった。  外の空気を求めるように吉澤から背を向け、先に戻る、と放送室を出た。またな、田所。そんな声が背後から聞こえた気がしたが、本当に気のせいだったのかもしれない。  そして吉澤からの呼び出しは、この日以降、ぷつりと途絶えることになった。  

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