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第11話

 朝日の差し込むガラス窓の向こうが、突然騒がしくなる。  部員の誰よりも早く、俺は視線を向けた。そこにいたのは顔すら知らない下級生たちだ。この日のために制作したおそろいのクラスTシャツを身につけ、準備物を抱えたまま通り過ぎていく。  行き場を失った気持ちを慰めるように、窓へと歩み寄り、施錠を開ける。窓を開ければ、濁りのない秋風が頬をいたずらに撫でた。  一旦、クラスに戻ろう。ホームルームだ。そんな声を意識の外側で聞きながら、わかった、と返事し、再び窓を閉じる。  高校最後の文化祭が、始まろうとしていた。   *  ――おはようございます、生徒のみなさん。朝ごはんはしっかり食べましたか。  腹が空いては戦はできぬ。腹が空いては、文化祭を乗り切るなんてできません。  ちなみに私は今朝、緊張のせいで寝過ごしてしまって、食べる時間がありませんでした。  そんな私を不憫に思った方、よければ今日明日と、校内放送や音響設備に翻弄される放送部のみんなへ、エールを送ってください。  あと私に「二年一組のクレープ」と「一年四組の焼きそば」の差し入れ、待ってます。  さて、今日は特別編。いつものランチタイムラジオではなく、文化祭仕様のモーニングラジオとしてお届け中。  文化祭を迎えるまでの準備期間、辛いこと、苦しいこと、トラブルだってありましたよね。特に三年生は、一、二年生と比べて出展規模は控えめでも、受験勉強と両立しながらの準備は本当に大変だったと思います。  私もそう。中にはやけ食いしたり、逃げるように徹夜でゲームしたりして、ってそんな人間は私だけ?  まあそんな中、今年も全クラスの出展が無事整った、と放送部に情報が届いています。  三年生にとっては、これが最後の文化祭。同じく三年である私、吉澤がパーソナリティを務めるのも、これで最後です。  ……えーっと、そう、ですね。あの、ちょっとごめん。なんか、急に言葉が出なくなっちゃって。  はい。すみません、気を取り直して。  本当にみなさん、お疲れさまでした。  だから今日はたくさんのエールを、言葉に乗せて送りたいと思います。  どうか今日からの二日間、後夜祭まで、悔いのないように全力で楽しんでください。三年間、ラジオを聴いてくれた人も、本当にありがとう。  絶対に。絶対に、後悔するなよ!  それではこれより、文化祭、スタートです! *  美術部の出展は、毎年恒例の作品展示だ。  部員たちは順番に「案内係」として店番が割り振られている。展示を見に来てくれる人はそこそこいるが「案内係」が必要となる場面はほとんどない。誰もが作品の解説なんか求めることなく、部屋を後にする。  退屈だ暇だ、と部員たちから声が上がることも少なくない当番も、今年で最後だった。 「来ないですね」  そう言ったのは、俺と店番のペアになった美術部の後輩だった。  吉澤の声から始まった高校最後の文化祭も、いつしか終わりを迎えようとしている。  最終日の午後。文化祭が終わるラスト一時間の当番を割り振られ、俺と後輩は大した話で盛り上がることもないまま。絵具や木の匂いで煮詰まった空間に、ぽつんと座っていた。 「誰のことだ?」 「吉澤先輩です」  明確に言葉にされた途端、LEDの白い光に照らされた作品たちがどこか遠くに感じられた。  きっとあいつなら適当な言葉で繋いでいけるんだろうが、俺にはその言葉を見つける術がない。俺は黙ったまま、キャンバスたちの輪郭を闇雲に目でなぞった。 「でも、やっぱり来ないですよね」  後輩が、吐息に乗せて言った。  吉澤が来ないのは、なにも今日に限った話じゃない。  季節が進むにつれ、受験生だった俺たちの会う時間は少しずつ減り、もう何ヶ月も吉澤は美術室に顔を見せていなかった。  呼び出しも、もちろんない。  部活と予備校を両立させる吉澤は多忙なのか、校内で見かけるたびに、どこか疲労感を漂わせている。俺はというと受験対策用の短期講習に通いつつも、美術部の集大成である文化祭に向けて制作に没頭する毎日だ。  顔を合わせたところで多くを語ることなく、じゃあまた、とすれ違うだけだった。 「文化祭の日ぐらいは来るかなと思ったんですけど」  いつも楽しみだったんだよなあ。  後輩からそう言われるほど、部外者であるはずのあいつは美術部に馴染みすぎていたんだろう。 「俺、田所先輩の作品、やっぱり吉澤先輩には見てほしかったなあ、って」  後輩のまっすぐ伸びた視線の先。  そこにあるのは、俺が手がけた作品の中で一番の大きさの木版画だ。俺の両手を広げてもまだ届かないほどの大きな合板に彫ったそれは、展望台より見下ろした、東京の街並みを描いている。  碁盤の目状に走る道路、大小様々なビル群の重なり、流れる運河のように太い川。そしてちぎった雲をいたずらに散らしたような空。  インクの乗りをよくするために、ひたすらやすりがけをすることも、果てのなさを感じる彫り作業の大変さだって。  吉澤は、なにも知らない。  作品はできるだけ見せないようにしていた。熱心に通う吉澤に見せてやれよ、とほかの部員から詰められても、俺は頑なに見せなかった。  あいつに「すごい」と言われるのが苦手だった。  幼少時代なんかは意固地な気質のせいで、よく周りの子どもたちとトラブルになっていた、と母親からは聞いている。  天才的に秀でているものはなく、美術部にいながらも芸術面ですら表彰された経験もない。学校で目を惹く存在なのは圧倒的に吉澤のほうだった。  それでもあいつは、いとも簡単に「すごい」と口にしてしまう。  たくさんの言葉に紛れて、軽々しく届けられるせいで。なのにいつも俺をまっすぐに見つめてくるせいで。俺は呼吸ができなくなる。いつも。いつまでも。  くだらない。わかってる。吉澤はなにも悪くない。全部俺が、未熟なせいだ。  いつだってあいつは懲りずに、美術室へと通ってくれていたというのに。  会えなくなった途端、ほかの誰よりも自分の作品を見てほしくてたまらなかった。

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