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第12話
後夜祭には参加したことがない。
文化祭が近づいてくると、事前調査として後夜祭参加の有無を記載する紙を回されるが、俺はいつも「欠席」に丸をつけた。一緒に見る相手もいないのに、参加したところで心から楽しめるわけがない。
いやいや、そんなことないって。軽音部のライブ、いつもすっげえ盛り上がるのに、後夜祭に参加しないのはもったいないよ。一人が嫌なら、俺が田所と一緒にいるから。放送部だから俺は客席からは見られないけど、特別ってことで、おまえもステージの袖から見ればいいじゃん。
ってこの話するの何回目って感じだけど。毎年誘ってるのに、田所、全然来てくれないじゃん。やっぱり三年生ラストの後夜祭ぐらいは俺と参加しようよ。
なあ、田所。本当に、ダメ?
そんな吉澤の勢いに負けて、わかった、と約束してしまったのは、多分高校二年の文化祭が終わった後だったと思う。
別に一年前の口約束なんて、こんな状況になった今、破ってしまっても文句は言われないだろう。どうしても無理になったから帰る、と教師に伝えればそれでいい話だった。
美術部の展示作品も、お菓子釣りを開催していたクラスの出展も片づけを終えた。後夜祭に参加する意思のあるやつらは浮き足立ちながら、ぞろぞろと体育館へ向かっていく。
そんな中、俺は美術室の窓際に椅子を置き、漠然と外を眺めた。
もう随分と陽が傾いている。空が、青から朱に染まっていく。肌に触れる風は冷たく、俺は小さく身をすくめながら窓を閉じた。
こつ、と頭を窓ガラスにくっつける。後夜祭の案内放送が頭上を滑っていく。
このまま。このまま、ここで座っていたって、どうしようない。どうしようもない、とわかっているのに。
帰ろう。そう決意した瞬間、制服のポケットの中でスマホが震えた。吉澤だった。
躊躇いがちに、通話ボタンを押す。
「はい」
「あ、田所! おまえ、まだ学校にいる?」
「……なに? なんて言った?」
「だからまだ、校内にいるのか、って!」
美術室の静寂とは打って変わり、スマホ越しの音はあらゆる雑音にまみれている。吉澤の声が聞き取りづらくて仕方がない。意味もなく、耳をきつく画面に押し当てた。
「俺、今、体育館にいてさ。軽音部のリハやってて、音響の担当してて」
心なしか、吉澤の声が震えているようだった。時折音声に混じる、周囲にいるだろう人々の声もやけに険しい。
「どうした、なにかあったのか」
「せっかくのリハなのに、皆気合い入ってるのに、おかしいんだよ。さっきまで音がスピーカーから出てたのに急に出なくなった」
「なぜ?」
「わかんない、なんでかわかんない。今誰かが先生を呼びにいってるけど全然戻ってこないし、業者なんか間に合うはずないし、なあ、どうすればいいんだろ。わかんない、わかんないんだって、時間もないのに!」
「吉澤、いいから落ち着け」
「落ち着けるわけないだろ! 最後の文化祭なんだよ!」
怒りというよりも、悲しみにも似た、荒い声だった。
気づけば俺は、衝動的に美術室を飛び出していた。
「ごめ……田所、ごめん。でも俺、どうしたらいい。これ、どうすればいいんだよ。皆で原因探ってるけど全然直んないんだよ。わかんねえよ。もうほかに頼れるひとが……」
「なあ、吉澤」
「……なに」
校内に人が少なくてよかったと思う。廊下を全力で走る俺を、咎めるやつは誰もいない。
「おまえは、俺に、どうしてほしい」
「え」
「言えよ。ちゃんと、言え!」
吉澤の声が途切れる。だけど、確かな息づかいはそこにある。
心臓のポンプが加速する。呼吸が跳ねる。渡り廊下を走り抜ける俺を追い風が笑う。
それでも足は、走ることをやめない。
「……田所、頼む。助けて」
*
ミキサーの出力から、アンプへとつながるケーブルがわずかにゆるんで、浮いていた。もしかして、これだろうか。膝をつき、プラグを抜き差しする。ジ、ジジッ。蝉の鳴き声にも似た雑音が、スピーカーを通して聞こえてきた。
なるほど。ただのプラグのゆるみじゃない。触れた瞬間の雑音。そして、俺が来る前は音が出ていたということ。
部員たちが見逃すのも無理はないかもしれない。こうやってひとつひとつ、しらみつぶしにプラグを触って、ようやく見つかるレベルだ。
わかった、と言葉にした瞬間、舞台に散っていた放送部の部員たちが、青ざめた顔をしたまま一斉に集まってきた。ちょっとした動揺が表情に出ていたんだろうか、吉澤が俺を庇うように集団の中から飛び出し「どれ」と顔をこちらに近づけた。
「ミキサーとアンプの間。このケーブル、多分、断線しかけている。ちょっと触っただけでノイズが走るし、プラグの歪みもある。出力が不安定になる原因だ」
交換しよう。そう呟いた途端、指示する間もなく放送部の部員から、替えの新しいケーブルが差し出された。
改めてケーブルを取り替える。今度はしっかりと、奥深くまでプラグを差しこむ。吉澤に目配せした。
「ギター、試しに鳴らしてもらえますか!」
吉澤の合図に、リハ中だった軽音部員たちがうなずき、ギターの弦を上から下に向かって掻き鳴らす。毛が逆立つような熱量を持って、館内に大きな音が響いた。
「は、今、音出た? まじ?」
「ガチで直すじゃん……」
「おいおい田所、神すぎんだろ!」
火花が弾けたように、わっと歓声があがる。ねぎらいの声をかけられ、背中を軽く叩かれ、強引な握手とともに礼を言われる。大勢を相手にすることには慣れていない。終始俺の眉間は寄りっぱなしだった。
「はい、みんな、集中! 入場時間まであと十分!」
部長と思われる男の声で、俺に群がっていたやつらが見事に散った。客を出迎えるため、舞台の幕が閉じられていく。
ぽつんと孤立したところで、こっち、と吉澤に腕を強く引かれた。連れてこられたのは、薄暗い舞台袖だった。
久しぶりに見た吉澤の姿は、心臓の裏側をぞわぞわと指でなぞられるような思いがした。
目の前にいるのは、確実にあの吉澤だというのに、俺の知らない人間を見ているようでどこか居心地が悪い。そう思うのに、うっすらと赤く、汗を浮かべたその輪郭から目が離せなかった。
「……来てくれて、本当に助かった」
吉澤の手が、俺の腕から離れていく。離れたところがたちまち痛みを帯びて、その手を一瞥せずにはいられなかった。
「間に合ったな」
ようやく吉澤が振り返った。硬質な表情で俺を見たかと思いきや、絡まった糸をほどくようにふっと口元を緩ませる。
「……でも、ごめん。こんなときに頼るの、ちょっとずるいよな」
「こんなときだからこそ、だろ」
「機材詳しかったんだな」
たまたま父親が機材オタクで、俺もちょっといじらせてもらった程度の、浅すぎる経験があっただけだ。
当然、知らなければ直せなかっただろう。それに開演までに間に合わない可能性だってあった。
「……ただの偶然だ。偶然、知ってた」
格好のつかない返事だった。それでも俺がここに来た建前を作っておかないと、今にもなにかが壊れだしそうだった。抑えきれないなにかが、俺の中で凶暴なまでに育っている。
「……あの、さ。田所は元気にしてた、って。こんなときに、なに聞いてんだろ」
そう言って、吉澤はすぐに乾いた笑い声を上げた。その笑い声も次第に鳴りを潜めていく。吉澤は首を垂れ、俺たちの間には、束の間の無言が訪れた。
ああ、となんとか返事をする。吉澤の細い肩が、ぴくりと跳ねた。
「俺は、元気だった」
入場まであと五分、と部員の声がけたたましく反響する。ラストスパートといわんばかりに軽音部たちの調整が続いている。
「吉澤は?」
「俺は、もちろん……」
唐突に言葉を飲みこみ、違う、と吉澤の頭が左右にゆれる。やっぱり、元気じゃなかったよ、俺。
「田所と一緒にいるほうが、俺、元気みたいだ」
吉澤が俺を見た。
うそだ。元気だなんて、うそだ。吉澤は今にも泣きそうな顔をして、笑っていた。
あの吉澤が、と思う。
校内にいる吉澤は、いつ見ても、どこにいても周囲に見事に溶けこんでいた。輪を乱すことなく、ひとつの違和感も出さない。
そうだろ。俺がいなくても楽しそうに笑ってただろ、おまえは。いつだって。なのにあまりにぎこちない表情を見せるから、俺は見ていられなくなる。
「おーい、吉澤ーっ! まじでどこにいんのー! 入場開始すんぞーっ」
放送部員の声だろう。探されるのは当然だ。どうする、と問いかけるよりも先に、吉澤が俺の手を強く引っ張った。
暗幕を掻い潜る。互いに黙ったまま、どんどんと舞台袖の奥深くへと誘導される。これ以上進んだらどこにも帰れなくなりそうで、それがひどく恐ろしかった。
なのに俺は、息をするのも難しい鼓動を抱えながら、吉澤についていくことしかできない。
吉澤が案内してくれたのは、天井付近をぐるりと囲うように設置された点検用通路。そこへとつながる階段の裏側だった。
このつながった先にも、人がいるのはわかっている。俺がケーブルの異常を見つけ出す間に、照明係が何度も上り下りを繰り返していた。
行き場はない。追いつめられながらも、俺たちは身を隠すように並んでしゃがみこむ。
息を潜める。まつげの長さも、ほくろの位置も、わずかに荒れた唇も。息づかいさえも肌で感じ取れる距離に、吉澤がいる。解くことを忘れた俺たちの手は、ひどく汗ばんでいた。
観客の入場が始まったらしい。館内に満ちる人の気配が濃く、厚くなってきたのが空気の震えでわかる。
「……離れたくないなあ」
それは、あまりにか細い声だった。少しでも吉澤から意識をそらせば、観客たちのざわつきで全てがかき消されそうな気がした。
「離れたくないよ」
今度は、力強い声だった。
無理だ。直感的に、思う。そんなもの、無理だろ。恨みがましく床の木目を見据えた。
おまえと俺の行きたい大学は、何度答えを擦り合わせてみても重なることはなかった。今だって、部員たちが吉澤を探してる。俺の知ってる吉澤は、きっと持ち場に戻るんだろう。与えられた役割を、無責任に放り出したりしない。
それでも俺は、つかんだこの手を離せなかった。
吉澤の手を握り返す。吉澤はハッとしたように俺を見て、ためらいがちに指を絡めてきた。
「なあ、田所。俺は……」
続きを待った。だがいくら待っても、その先は訪れない。
「……ごめん、なんでもない」
吉澤の指が解けていく。何事もなかったかのように立ち上がり「ライブ、楽しんで」と軽い調子で俺に言葉を残した。
行くな、吉澤。
それは、声にはならなかった。無慈悲なまでに、吐息が空気を震わせる。遠ざかる吉澤をつかむこともできないまま、俺の手は重力に打ち負けて、やがてだらりと落ちてきた。
「あー! 吉澤、こんなとこにいたんか!」
舞台袖から顔を出した途端、吉澤はすぐに部員に見つかったらしい。
「早くしろよ、場内のアナウンス係だろ?」
「ごめんな、ちょっと緊張して、お腹痛くてさあー」
遠ざかったはずの吉澤の声が、鼓膜の上でいつまでも反響し続ける。手の中の温もりは消えないままだ。
*
結局俺は、後夜祭のライブを最後まで見た。田所ならいいよ、と放送部員たちから歓迎を受けて、誰の邪魔にもならないよう、舞台袖から演奏を聴き続けたのを覚えている。
感想は持ち合わせていない。集中なんて、できるはずもなかった。拳を突き上げ、ボーカルのコールアンドレスポンスに応え、客席が荒れた海のようにうねり続ける中、俺は反対側の舞台袖にいる吉澤を見ていたから、だ。
一度だけ、目が合ったよな、吉澤。
でも、それっきりだ。すぐに吉澤の目は逸れた。誘ったのは吉澤のほうだったのに、後夜祭を一緒に過ごすことはできなかった。最後まで。
この日のことを、大人になった今でも思い出す。
感想はなくとも、軽音部のコピーバンドが演奏したジャパニーズロックが、何気なく耳に残っていたようだ。そこからさらに数年後、大学時代のバイト帰りに聞いていたラジオの中で、この曲と再会した。
調べるうちに、この曲を作ったギタリストは相当な喫煙家だと知った。
本当にたったそれだけの理由で。子どもだったあの日の自分を慰めてやろうと、たばこを吸い始めたのだった。
もうすぐ昼休みが終わるらしい。喫煙所にいた社員たちが少しずついなくなり、とうとう最後の一人になる。
天井に向けて、煙を吐いた。肺の奥が痛むほど、長く、吐いた。
こんなこと、いったい誰が予想できただろう。卒業して数年後、まさか吉澤と同じ会社に勤めるようになるとは思わなかった。
何年も連絡を取り合うことがなかったのに、会った瞬間、俺たちは驚くほどいつも通りだった。
「……変わらないな」
お手ごろな距離感というやつを、俺たちはもう何年も続けている。
変わらないことに安堵する反面、大人になってもまだ続けようとしていることが、ときどき無性に惨めに思えて仕方がなかった。
鼓舞するように、開いていた手を握りしめる。フィルター間近となり、携帯灰皿を作業着のポケットから取り出す。
顔をしかめる。久しぶりに、たばこが苦いと思った。
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