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第13話

「田所がいると、現場の空気がいい感じに締まるよな」  Nプロの据え付け工事が始まって三週間が過ぎたころ。午後になり、現場にふらりと現れた吉澤が、そう言っていつものように笑った。事前に「今日ちょっと顔出すから」とチャットを入れてくることの多い吉澤が、この日ばかりはなぜか突然の来訪だった。 「来るなら言え」 「言ったら構えるだろ?」  いつもはビジネスシューズで戦う吉澤も、今は安全靴に履き替えている。ヘアセットが崩れることも惜しまず、堂々とかぶった白いヘルメットは様になっていた。佐々木さんの言い付けをしっかりと守るその姿に、時間の重みを感じずにはいられない。 「上の人間が来るならな」 「俺じゃあダメだったか。あ、これ差し入れ」  吉澤の手から、いくつかのビニール袋が手渡された。ずしりと重い。中にはお茶やスポーツドリンクのほかにも、簡単に栄養補給のできる軽食や、俺がよく飲むメーカーの缶コーヒーも入っていた。  職人全員分、余裕で足りそうだ。それを思えば、これだけ重いのも納得がいく。 「悪いな。あとで皆に配っておく」 「それで、進捗はどう?」  俺の見立てでは、そろそろガイドレールの取り付けも終盤だろ。そう話しながら、吉澤は仮設照明だらけのフロア全体をぐるりと見まわした後、四角くくり抜かれた空洞のひとつを指差した。  吉澤の指をたどった先、その開口部はやがてエレベータの搭乗口になるところだ。  四台分の居住用と、非常用が一台。そして地下駐車場専用機が一台。Nプロでは、合計六台のエレベーターをTSEが据え付けることになっている。 「一日分の遅れは出てるが、概ね予定通りだ」 「その遅れって、報告に上がってたやつだろ? 田所が墨出しチームにダメ出しした、ってやつ」 「……ダメ出しじゃない。必要事項だ」  業界内で「墨出し」と呼ばれる工程は、いわゆる設計図を現場にトレースするための、マーキング作業のことだった。  なにを取り付けるのか。座標位置は。ビスを打つ場所は。そういった細々とした指定を、かごの通り路である昇降路内に書きこむ、大事な工程だ。  初期の精度が物を言う世界だった。ミリ単位のズレが後々トラブルを呼び起こすことは、この業界にいれば嫌というほど実感できるだろう。据え付けのやり直しとなれば、かかる費用も膨大になる。  それだというのに、今回の墨出しはひどくおざなりな出来だった。  シャフトの中でズレた線は、いずれ誰かの命を狂わせるかもしれない、と。わかってほしくて、俺は相手が年上だろうと平等に叱ったのだった。  さらには墨出しのチームに口出しをするどころか、自ら手を出し、修正まで施したのは記憶に新しい。 「それで? 田所が満足のいく墨出しになった?」 「及第点ってとこか」 「手厳しいなあ。けど、ちょっとの遅れはまだ想定範囲内だろ?」  吉澤がはにかむように笑うので、俺もつられて口角を持ち上げる。 「随分と余裕のある工期が組めてる。焦りはない」  こればかりは吉澤のおかげだろう。窓口として、そしてTSEの名を背負って。吉澤はゼネコンの意を汲みながらも、俺たち実動部隊の仕事を「スピード勝負」なんていう安い売り方をしなかった。  こちらの工期を短く設定すれば、ゼネコンは確かに「納期が短くなる」とありがたがるはずだ。しかしその分、仕事に焦りが生まれて、据え付け自体が粗末な仕上がりになる可能性も秘めている。  雑な仕事は、したくない。直接的な言葉を吉澤に言って聞かせたことはなかったが、いつしかそれは俺たち共通の認識になっているようだ。 「それで今日はどうした。本当にただの陣中見舞いか?」 「今日は現場所長に会いに。あとは、俺にとって特別な現場を、今のうちにちゃんとこの目に焼きつけておこうかなって」  俺たちはゆっくりと歩き、開口部の近くまでやってきた。  まるで巨大なモンスターの口のように、壁を大きく切り抜いた開口部、その奥に広がるのは、シャフト、と呼ばれるエレベーターの通り路だ。何百メートルもある立派なタワマンを、垂直かつ精密に貫くシャフトは、かごを吊り下げる前だからこそ見られる貴重なものだった。 「吉澤」 「わかってる。気をつける」  吉澤がわずかに身を乗り出し、シャフト内を覗きこむ。組んだ足場の上でガイドレールの設置作業を行う職人たちにあいさつをしながら、吉澤が神妙な顔つきで上へと視線を送った。  なあ、田所。そう名前を呼ぶ吉澤の声は、いつもより遠くから聞こえてくる感じがした。 「いつ見ても思うけどさ。ずっと眺めてると怖くなってくる。このままシャフトの中に吸いこまれそうで」  もう戻ってこられなくなりそうで、怖い。  そう言った吉澤の横顔は冗談のようでいて、本気のようにも見えた。  ときどき、こんなふうに吉澤の奥底が透けて見えるときがある。  シャフト内に存在するのは、ブラックホールのように深い闇だった。そこにくべた仮設照明だけが唯一の灯火となる、隔離された世界だ。  吉澤の発言も、今なら理解ができる。  ただ、子どものころはわからなかった。思い返せばあのころからずっと吉澤は、人がいる場所を好みながらもどこか慎重で、臆病だった。 「こんな閉鎖空間で、連日作業するのは正直きついだろ?」  そう言って吉澤は一歩踏み出し、シャフト内に体を入れた。俺もあとに続いて、隣に並ぶ。ほこりと鉄、現場特有の油っぽい匂いに混じり、吉澤のたばこの匂いがひとときだけ鼻をくすぐった。 「些細なミスも許されない分、余計にな」  答える俺に、吉澤は静かに相づちを打った。  ガイドレールは、かごを安全に運ぶための命綱だ。  要はジェットコースターのレールと同じ。このスチール製のレールに沿って、かごも動く仕組みになっている。  そして、かごの上下動作時に起こりうる、横揺れの制御や、緊急時における安全装置の的確な作動も、このガイドレールをズレなく、シャフト内に取り付けることでしか生まれてこない快適性だ。しかも、工程の最初に行われる、正しさが担保された墨出しがあってこそ、初めて実現できる。まさに職人技だった。  そうだ。俺たちの作業は常に、人間でありながらもロボットのような正確さを求められる。  絶対的に安全で完璧なエレベーターなんて、本来は実現不可能なんだろう。  なのに人々はそれを、本能で求めてくる。求められる以上、誰かの命の重みを感じながら、暗闇の中で自分の命をかけ続けるのが、現場を担う俺たちの役目だった。 「田所の顔、こわばってる」  いつのまにか、吉澤が俺を間近で見ていた。距離の近さに、一瞬たじろぎそうになる。 「……言っておくが、一応、気にはしてるんだ」 「あ、そうなんだ」 「おまえが仏頂面してると、新入りが余計に緊張するからもうちょっと顔の筋肉ほぐせ、って指摘された。主任になる前」 「誰に?」 「佐々木さん」  さすが佐々木さん、と吉澤が肩を揺らす。 「誰に対しても遠慮がなくていいなあ」 「……そうだな。尊敬してる」 「あ、でも、おまえのその真剣な顔、俺は結構好き」  この作業をやってるときの田所が見たくて、来てるとこ、あるから。  吉澤は俺を見ることなく、静かに笑っている。  たったそれだけのことで、上手な呼吸の仕方を思い出せなくなる。俺の心臓から、平穏をあっけなく奪い去ってしまうのだからやるせない。  思いつきのように話す吉澤を、いっそのこと恨んでしまえたら楽になるんだろう。だが、いつまでも。それこそ子どもだったあのころから、甘く耳に残る吉澤の声がそれを許してくれそうになかった。  なにも言い返せないまま、時間だけが過ぎる。  断続的に金属音がこだまするシャフト内で、しばらく俺たちはただ黙って、上を眺めていた。 「あー吉澤くん、いたいたー! やっぱりここだった!」  田所ちゃんも、お疲れっす。軽やかな声とともに、シャフト内を覗く人影へ目を向けると、そこにいたのは俺たちの同期、そして営業二課の高橋だった。

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