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第15話

「……きっかけは、校内放送のラジオだ」 「校内放送? 学生時代ってこと?」  興味津々と言わんばかりに、高橋が先を促した。吉澤の無言の視線を肌で感じながら、慎重に口を開く。 「俺の中では、聞けるのが当たり前だった。でも卒業した途端聞けなくなって、今聞いてるラジオはその代わりなんだと思う」 「……まさか田所ちゃんの口から、そういう情緒的なエピソードが出てくるなんて」  よっぽどラジオの子の声が、印象的だったとか?  高橋の問いに返す間もなく、吉澤と俺の肩がぶつかった。よろけそうになった吉澤を支えてやると、ごめん、と今にも消え入りそうな声が返ってくる。 「……印象的だったな」  できるなら、ずっと聞いていたかった、と。驚くほど滑らかに、言葉が俺の中から出ていく。  ふと、吉澤と視線がぶつかった。  吉澤の体に触れていた手を、絡みつく視線ごと解くように、ゆっくりと離す。いつかと同じ、俺は吉澤の背中をトンと叩いてから、自分の歩調をわずかに速めた。 「いいなあ、俺もそんな青春エピソードほしい。やり直したい。吉澤くんも、そう思わない?」 「やり直してどうすんの」  吉澤がやけに淡々と問い返す。別にどうもしないよ、と高橋の声も平坦だ。 「学生時代にしか味わえない空気ってあるでしょ。それをもう一度味わいたいだけだって。それで、吉澤くんはどう?」  やり直してみたい? イエス? ノー? 高橋がそう尋ねたタイミングで、店に着く。  風になびく藍色ののれんをくぐり、高橋が率先して木製の引き戸を開いた。いらっしゃいませ、の威勢のいい出迎えに混ざりながら、吉澤が言う。  その横顔は、にわかに歪んでいた。 「高橋にだけは、絶対に、教えたくない」 *  同期会を開くのは、いつぶりだったか。  高橋のおすすめの店は、落ち着いた照明とジャパニーズモダンを組み合わせた、洒落た店だった。メニューも和食の創作料理がメインでありながら、変に斬新すぎることもない。日本人なら誰もが慣れ親しんでいるだろう出汁の効いた味つけは、ちょうどいい塩梅だった。  特に戻りカツオのたたきは、脂がしっかり乗っていて、豊富な種類の薬味と絡めば、旨さが何倍にも膨れあがってよかった。  ここね、季節の旬に合わせて提供するために、日本酒の種類が豊富なんだよ。メニューを決める前に高橋が教えてくれたこともあってか、俺と吉澤は珍しく日本酒をちびちびと減らしていく。  酔いが回りすぎないようゆっくり飲む俺たちとは反対に、高橋のスピードは早い。これでも少しずつ酒に弱くなってる、と高橋は言う。それにしたって、その顔色は飲む前とくらべても、ほとんど変わらなかった。若干、目尻が下がったような気がする程度で、変にテンションが乱高下することもない。 「ねえ吉澤くん、もう眠いんでしょ?」  高橋の声に誘導されるように、俺の肩へ無防備なまでに体を預けた吉澤を見る。水の入ったグラスをつかんだまま、机の一点を無心で見つめる吉澤のまぶたはひどく重たげだ。  普段飲むビールよりも度数が高いこともあってか、眠気が吉澤を襲うタイミングが、いつもより前倒し気味になっている。 「眠くないって。まだ平気」  相変わらず無表情のまま、吉澤は唇をゆったりと動かした。 「お家にそろそろ帰ろっか? 手、貸す?」 「……うるさい。子ども扱いするのやめろって」 「だって本当のことでしょ。明らかに助けが必要なときでも自力で解決しようとするのは、あまりに傲慢すぎる。子供のほうがまだ上手に頼れる分、吉澤くんより扱いやすいかもね」 「うるさい、ばか」  拗ねた顔つきをして、虫を払うように吉澤が手を動かした。眠いせいもあるんだろうが、話術に長けた吉澤が、ここまで言いくるめられるのは珍しい。  いや、初めてかもしれない。俺の知らない吉澤の姿が、ここにある。喉の奥が酸で焼かれたみたいに、やけにひりついた。  高橋は決して、人を馬鹿にはしないやつだった。悪意のある毒を含まないから、場数を踏んできた吉澤でも上手にかわせない。 「吉澤くんさ、昔からずっと危なっかしく綱渡りしてるだけってことに気づいてる?」 「渡れてるならいいだろ。今までだって、これでやってこられたんだ」  先ほどから二人は、どうも仕事の話をしているようだった。  Nプロの営業補助に高橋が入ったこともそうだが、ここ最近、二人で営業活動をする時間が増えているらしい。  営業スタイルの違いからか、もともと仕事の上では噛み合わないことも多い二人だった。それでも軽く口論になることはあっても、数十分後にはくだらない話ができるような間柄だったはずだ。  しかし今は、違う。過ごす時間が長くなったせいで、蓄積したものたちが表面化したんだろうか。  腹の底を探り合うような静かな緊迫感が、最初の一杯に口をつけてからずっと、言葉の節々から漂い続けている。 「そのスタンスを続けてたら、いつか限界が来るよ。吉澤くん」  高橋はきっと気づかなかっただろう。吉澤の肩がかすかに跳ね、グラスの中の氷が微かに揺れて、音を立てた。  吉澤は言い返さない。言い返しはしないのに、グラスを握るその手は、力を込めすぎて白くなっている。  そんな吉澤の隣で俺は今、じりじりと、体の柔いところを炙られていた。それは俺が言えなかったことを言ってのけた高橋への嫉妬心なのか、もしくはふがいない自分への苛立ちのせいなのか。わからない。  思考がどうにもふらついている。 「……今のはクリティカルヒットだったんじゃないか、高橋」  手持ち無沙汰を装い、高橋の空いた猪口に酒を注ぐ。なみなみ注いだところで、らしくないよね俺も、とこれまた珍しく高橋が自嘲する。 「いつもはジャブ打つだけだし、フェイントもきちんと入れるんだけどさ」 「なんか焦っちゃった」と高橋はそう言い、酒を一気に口に含んだ。再び空になった猪口へ、高橋は手酌で酒を注いだものの、なかなか口をつけようとはしない。 「鷹も狩りどきを見誤ることがあるんだな」 「シゴデキの田所ちゃんにそう言われちゃうと、反省するしかないかも」 「そこまでのことなのか?」 「自分が腹をくくったんだから、つい求めちゃった。どっちが傲慢なんだよ、って話だけどさ」  俺ね、来年、今付き合ってる彼女と籍入れるの。  高橋の突然の告白に、え、と吉澤が掠れた声を漏らす。俺に寄りかかっていた身体を正すと、吉澤は驚きに満ちた表情で高橋と向き合っている。 「……結婚、すんの?」  吉澤の問いかけに迷いなく頷く高橋は、俺たちと同じ世界を見ている人間には思えなかった。 「そう。俺、ケッコンするの。もう付き合って六年以上経つし、そろそろね」   高橋には、大学生のころから付き合っている彼女がいる。それこそ同期会を始めてから割と早い段階で俺たちに教えてくれて、一年ほど前から同棲を始めたときにも、律儀に報告を受けたように思う。  見た目だけで言えば、高橋はどこか浮ついた印象を与えかねない。だが実際の高橋は浮気もしなければ、飲み会の場では誰よりも早く「彼女が待ってるから」と帰る、一途な人間だった。 「ずっと、迷ってるって言ってたのに」  吉澤の呟きを拾って、迷ってたよ、と高橋は続ける。 「結婚しなくても、ずっと一緒にいることはできるから」  でも、安心させたかったんだよね。それはどこまでも澄んだ声だった。俺も吉澤も、迷いを見せることのない高橋から、目が離せないでいる。 「彼女と、彼女の家族を安心させたかった。目に見える形で、俺が一緒にいる理由を残しておきたかったんだよ」  ほら、俺たちの仕事でも契約書ってすごく大事でしょ。  流れるように酒を飲んで、おめでとう、とようやく絞り出した吉澤はどこか寂しそうに笑っている。 「あ、そうだ。吉澤くんも俺を安心させてみるのはどう?」  ヤダ、とだけ吉澤が返す。その隣で俺は逃げるように、口を閉ざした。

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